「お金で解決できることは、お金で解決しなさい」
私の母はよくそう言っていた。ちなみにうちは決して裕福ではなく、俗に言う貧困層に値する母子家庭であった。
この言葉は、単に「お金で解決する」という意味ではない。「世の中には、お金やもので簡単に解決できないことばかりあるから、気を付けなさい」という、とても分かりにくく、遠回しなメッセージだということに最近気が付いた。

爆発した遅めの反抗期も、大きな愛で守ってくれた

私は、父の家で中学校3年間を過ごしたため、思春期という時期に母と離れて過ごした。そのせいか、高校生になって2人でまた一緒に住み始めた時、遅めで強めの反抗期を発症した。

母は癇癪を起こしていた私をとにかく物理的に放置した。何度も何度も爆発する私に対して、母なりに私を傷つけず、母自身が自分を保つ方法だったのだろう。止める人もいない、怒りの矛先を見つけられなかった私は色んな物を壊した。大事にしていた大好きなキャラクターの置物も、表紙に一目ぼれして買ってもらった文庫本も、大切なおばあちゃんの形見のブレスレットも。大切なものを破壊することで、心をぼろぼろにして、思考停止することで、自分を止めていたのだと思う。

短い家出もたくさんした。家が都心から近かったこともあり、いろんな人に声をかけられた。危ない道に足を踏み入れることは、とても容易かった。それでも、そんな人たちについて行くことを選ばなかったのは、家で母が私を心配して待っていてくれていることを心の底では知っていたからだと思う。家に帰るといつも小さな声で「おかえり」と言い、夕食を一緒に買いに行ってくれた。

私の母は料理も掃除もやらない。というより、台湾出身の高所得家庭で育った所謂お嬢様のため、やる習慣や文化を持たずに母親になった。
雑誌に載っているような日本人の理想の母親像とは程遠い、完璧ではない母。でも、私の事をしっかりと大きな愛で守ってくれた。私のことをとても愛してくれた。

自分で働くようになって実感したのは、いつも母は私が寂しくないように頑張って定時で帰ってきてくれていたということだ。フルタイムで働く母親にとって、それがどれだけ難しいことなのか、やっと知った。
夫から暴力を振るわれ始めても、娘のために何年も我慢していた。やっと離婚しても、娘が父親と暮らすことに涙を堪えて反対しなかった。
それがどれだけ偉大で、苦しかったことなのか、無償の愛は世の中に溢れている訳ではないものだと知った今なら分かる。

帰る場所があることで、また一つ挑戦できる

今でも母は、私の事を愛してくれている。私自身も自覚があるのか、看護職を辞めて学校現場に入ってみたり、行ったことのない島で働いたり、いろんなところに繰り出し続けている。
それができるのはまぎれもなく、いつでも帰る場所があるからだ。
私がチャレンジできるのは母のおかげだと、本人に言うのは、なかなかできないけれども、ありがとうという気持ちを文章に残したい。そして、私が次の世代に伝える機会ができたら同じように言おうと思う。
「お金で解決できることは、お金で解決しなさい」
お金よりも大切なものをたくさん教えてくれたのは、まぎれもなく大好きなお母さんだった。