好きなアーティストのライブに行った経験は誰しもがあるのではないだろうか。私も例に漏れず、推しのアーティストのライブにせっせと通うような人間である。
もちろん、これから綴ることもそのうちの出来事のひとつで、私にはかけがえのない経験だということを、前に置いて読んで欲しい。

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昨年の11月、コロナ禍で結成されたグループのライブに、友達の付き添いという形で行くことになった。
もちろん私もそのグループが好きだった。出る番組は必ずチェックしていたし、グッズもなるべく買っていた。友達とそのグループについて語り明かしたこともある。そのくらいの熱量を持ってライブに臨んでいた。写真を撮ったり会場を見たりして、気分は完全に上がりきった。

そのライブは、結成後初めて中止されることなく行われたもので、しかもメンバーの誕生日と被っているという、かなり特別な日程のライブであった。それを当てた高揚感も相まって、テンションは最高潮に。この時は間違いなく世界で一番幸せな人間のうちの1人だったと、今でも思う。
そして、その気持ちのまま幕が上がった。席は正直いいとは言えない。一般でぎりぎり抽選に滑り込んだのだ。仕方ないだろうと諦めつつ、最大限に楽しんだ。
同じ空気を吸っている。同じ温度を共有している。それがたまらなく幸せで、心の中では「存在してくれてありがとう、本当にありがとう」と何度も叫んだ。

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そしていよいよライブが最後に差し掛かると、もちろんメンバーの想いも溢れ出す。アンコール後の挨拶でそれが爆発したのか、メンバー全員が長尺で話し始めた。私にとって1番問題だったのは、ここだ。
それはなぜか。私はどうしても、泣けなかったのである。

周りが鼻をすすり、小さな声で推しの名前を呟いている。ある意味オタクにとっては幻想的な雰囲気の中で、私は一滴も涙を流すことはなかった。
後日その様子が映画になり、挨拶をしている様子が一部収録されていたが、それを見る限りでは会場のほとんどの人がグッズのタオルで目元を押さえていたと思う。
もちろん、特別なライブだからだというのはわかる。結成されるまでも色々な試練があって、しかもその後のコロナ禍という大きな壁を乗り越えたメンバーが語る言葉には、確かに重みがあった。私ももちろんその歴史を知っていて、ここまでの道のりをおもうと胸が痛くなる。

でも、その日は泣けなかった。なんなら、その様子が収録された映画でも泣けなかった。友達は大号泣していたのに。

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挨拶を聞いている私の中には、ある感情が渦巻いていた。
一言で端的に表すと、「どうでもいい」だ。
推しがいる人にはわかってもらえないかもしれない。でも本当にどうでもよかったのだ。
ライブはとても楽しかった。歌も踊りも最高だった。それをどう捉えるかはもちろんファン次第である。今までたくさん頑張ってきたんだね、と思う気持ちもわかる。ただ、私にとって彼らは日本のアイドルグループで、日本でも指折りの最強のダンス力と歌唱力を持っている。それだけなのだ。
「ここまで長かったです」「正直僕がここに居る自信がありません」
だからなんだ。
私は、歌とダンスを見に来た。君たちが楽しくケーキを食べ、バースデーソングを歌う姿を見に来た。アイドルの君たちを見に来たのであって、君たちの人生そのものをエンターテインメントにしてほしいわけではない。それを想像するのはファンの仕事で、君たちがやるべきではない。なぜ、推しを泣かせてまで、辛いことを口に出させてまで、この空間で辛い思いをして話を聞かなければならないのか。そう思ったら、どうでもよくなった。

もしかしたら単純に、私に共感できるほどの器がないともいえるかもしれない。泣く体力がたまたまなかっただけかもしれない。
でも、あの時覚えた違和感は、なんとなく今でも心をもやもやと曇らせている。