私のために泣いてくれてありがとう。
これは、母への気持ちである。私がメンタル疾患を患って、精神科で先生の診察を受けていたとき。診察に付き添ってくれた母が、涙を流したのだ。
そのときの母は、今までのどんな母よりも小さくてか弱く見えた。母の強い姿しか見たことがなかったため、私は驚いた。

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私は気に病みやすい気質であり、過ぎたことにクヨクヨするタイプである。幼いころから母に悩みを相談すると、そのたびに「気にしすぎ」と言われてきた。だから、人並みに振舞えない自分が悪いのだと思い続けてきた。しかし、大人になり、そういう気質の人間が一定数存在することを知った。

つまるところ、母と私の性格は正反対で、お互いの感覚を完全に理解し合うのは難しいということだった。

けれど、自分のことを理解してほしくて、母に「気にしすぎ」と悩みを一蹴されてきたことが辛かったと伝えたことがある。そのとき、母は「ごめん。自分の感覚で物事を測ってた」と謝ってくれた。しかし、この出来事が、後の母に涙させてしまう原因になるとは思いもしなかった。

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私は1年ほど前、転職先の職場で適応できずにうつ状態となった。心のバランスを保てなくなり、毎日夜に泣いて母に電話を掛けるようになっていた。母は普段と変わらない態度で話を聞いてくれていたが、当時の私の精神状態は相当ひどく映っていたようだ。

精神科を受診することになった私は、母と共に病院を訪れた。母が、診察室についていっても良いかと尋ねてきたので、同席してもらった。私は先生と今後のことを話し合い、診察はつつがなく終わるかに思われた。

しかし、診察終わりに、先生に尋ねたいことがあると言って、母が話を切り出したのだ。内容は、療養中の私に対し、どのように接したら良いかということだった。

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自分の状況についてそこまで深刻に捉えていなかったので、母がそんなにも私のことを心配してくれていたことに驚いた。そして、母は「今までの私の言葉で辛い思いをさせていたのかな」と先生の前で涙をこぼしたのだ。それは、以前私に「気にしすぎと言われることが辛い」と打ち明けられたことに対する後悔のようだった。

「気にしすぎ」という言葉は、幼い私には辛かったし、自己を否定されるような心地がするものであった。しかし、それが母に涙を流させるほど心配をかけていたことに気づくきっかけとなった。いつもクールで、何があっても泣かない宣言をしていた母。しかし、その母が涙をこぼす姿を見て、自分がどれだけ大切に想われていたのかを思い知ったのだ。

涙する母の姿は、いつもの姿からは想像もできないほど弱く見えた。そして、そのときに、いつも私が「元気で健康でいること」を母が一番に望んでいる理由が、やっと腑に落ちたのだ。

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私に誇れるものがなくなっても、母は私を大切に想ってくれるのだと、今更ながらに感じたできごとだった。だから、私は元気な姿を見せたいと思うし、これからも健康でいたいと思う。
病気が治り、心のバランスも回復した。自分を俯瞰できるようになった今となっては、自分のことをもっと大切にしたいと思うようになった。

「いつも元気でニコニコしていてほしい」という母の言葉。それはかつて、とても苦しい言葉であったが、今ではその真意が理解できるようになった。自分のために意訳すると、「私が健康に過ごせて、人生に楽しいことが溢れますように」という母の思いが詰まっているのだ。
その意味を理解するのに20年もかかってしまった。随分と物わかりの悪い娘であったが、理解した今となっては、その言葉が愛に裏打ちされた温かい言葉であると感じる。

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お母さん、私の幸せを願ってくれてありがとう。私のために泣いてくれてありがとう。
こんなに大切に想われていたなんて、知らなかった。いつも見守っていてくれてありがとう。
すぐに躓いてしまう私だけど、小さくても一歩ずつ進んでいくからね。だから心配しないでね。