一体どれほどの言葉を使えば、どれほどの時間を費やせば、あの人たちに感謝を伝えることができるのだろう。
“変人”と言われた私を、何もできない私を、いつも一番身近で見守ってくれる人たちにどんな言葉をかければ、私の思いが伝わるだろうか。
普段は面と向かって「ありがとう」という言葉を使う機会がない。
いや、大人になってから直接あの人たちに感謝の言葉を伝えることができなくなってしまった、といった方が正しいかもしれない。
身近にいればいるほど、照れてしまって正直な気持ちが言えなくなってしまうのだ。
あの人たちの前で感謝の気持ちを直接言うには勇気がいるし、照れ隠しで余計なことを言ってしまうかもしれない。
口に出して言う勇気がなく、エッセイとしてここで言葉を綴るだけの私をあの人たちは許してくれるだろうか。

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私が「ありがとう」を言いたい相手。
それは私の一番身近な人たちである“家族”だ。
私は家族を見ると、いつも「よくこんな私を大人になるまで育てることができたよな……」と感心する。
私という人間は世界で一番育てにくい人間である、と私は思っている(回りくどい言い方かもしれないが)。

私には謎のこだわりがあるし、ちょっとしたことで傷つくし、テキトーな部分が多く、自分でもよく「私ってめんどくさい人間だな」と思う。
家族が愛想を尽かさないのが不思議なくらいだ。
私はひたすら自由に生きてきた。
そのために家族にたくさん迷惑をかけた。
中学受験もしたし、大学受験もした。おまけに入学した学校は私立だ。
カナダとアメリカの語学研修にも行かせてくれた。
私という人間を育てるためには非常にお金がかかる。
家は決して裕福ではなく、いつもカツカツな状態だった。
けれど私の家族、特に両親は「子どもに後悔はさせたくない。自分たちができなかったことをさせてあげたい。自分たちが見ることができなかった広い世界を知ってほしい」という思いで私を海外に行かせてくれた。

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私の家族はこんなにも優しいので、私という人間は家族にベッタリな状態である。
“依存する”“親のすねをかじる”といった意味のベッタリではなくて、単純に距離が近すぎる。
家族だからソーシャルディスタンスを保たなくてもいいんじゃない?……と思いきや本当にベッタリとくっついているので、親に「お前邪魔や」と言われる始末である。

でも、私のこの奇妙なベッタリ行為こそが私の「ありがとう」という感謝の気持ちであると家族は気づいているのだろうか。

私の家族よ。
実はあのベッタリ行為こそが私の感謝の示し方だったのだ……。
だって普段の生活の中で感謝の言葉を口にするなんて気まずいじゃないか。
「いつも本当にありがとう!」といったところで、「熱でもあるの?大丈夫?病院行こうか?」と聞き返されておしまいだ(実際にこのやり取りが行われたことがある)。
だから私はベッタリ攻撃をするのだ。

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ぎゅーっと抱きしめて、顔をうずめて、精一杯の感謝を込めてベッタリする。
家の中だからこそできることだが、外から見たら完全に変人である。
でも変でもいい。
これが私の「ありがとう」の伝え方なのだから。

いつか自分の口から照れることなく、目を見て感謝を伝えてみたい。
その時はいつもと同じように、ありったけの思いを込めて、家族に抱きつくのだ。