会議室にすすり泣く声。
「寂しいけど次の職場でも頑張ってね!ずっと応援してるよ!」
「ありがとう!」
◎ ◎
目の前には、互いに涙を流しながら熱い抱擁を交わす同期。
周囲の大人をも涙ぐませる感動的なワンシーンの舞台横に立つ私の心温は絶対零度。
その場の誰よりも、その舞台に興味もなければ涙も出なかった。
なんならこの時ばかりはマスクをしていてよかったと心の底から思う。
きっとその場に似合わない表情をしてしまっていたと思うから。
こんな私は非情ですか?
人生において、出会いと別れはワンセット。
私たちの関係に永遠なんてなく、出会いと別れを繰り返しながら長い人生を歩んでいく。
数十億人いるこの地球において、私たちが互いに出会い関係を育むことは奇跡であり、人生において大小様々な影響を与えていることだろう。
それは別れに関しても同様で、私たちは環境や自身の変化により、時には苦渋の決断になろうとも、これまで構築してきた関係を終わらせることがある。
そんな別れに涙する人も多い中、私のこの考えはマイノリティだと思う。
◎ ◎
昔から私の人間関係は誰とでも仲良く、誰とも深くなく、だった。
ノリの良さや、相手との距離感の計り方が得意で、いろんな人と仲良くできる人間だった。
一方でどの人に対しても無意識に厚めのパーソナルスペースを維持していたと思う。
また、女子特有の固定グループでつるむという行為がとても苦手だった。
帰りにみんなでプリクラを撮ったり、休日に遊ぶという行動が理解できなくて、何かにつけて帰りにみんなで遊びに行ったり、休日に友達と遊ぶことを避けてきた。
そこに価値を感じていなかった。
どのグループにも属さず、TPOで一番適当なグループに居座り、終わったらまた旅立つ。
まるで浮草のような私の人間関係が私は好きだった。
そんな湯葉よりも薄い関係しか築かない私は、別れが訪れても当然全く悲しくないのだ。
ごく少数の、マントルよりも厚い信頼関係を築いてきた家族や恋人との別れは例外で、この場合は身体中の水分が枯れるのではないかと思えるほどの涙を流し別れを惜しむが、その他は卒業式だろうが、誰かが会社を辞めたり異動しようが、一滴の涙も出なかった。
「旅立ちの日の合唱中、みんなが泣いてる中、睡蓮の声が響いてたのが印象的だった」
卒業式後の当時のクラスメイトに言われた言葉は、思わず私らしいと思ってしまった。
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ここで一つ補足をすると、私は決して私と出会って関係を構築してくれた人たちが嫌いではなく、むしろ好きだということだ。
確かに人よりパーソナルスペースが広いかもしれないが、彼らと過ごした日々はとても楽しく、今の私を作っているといっても過言ではないため、感謝している。
では、なぜ泣かないのか。
それは、私は常に私と彼らの未来にのみフォーカスを当てているからと言える。
私は私の人生の舞台に毎日立ち、主役として生きていく必要がある。
その上で私の未来を一緒に作り上げてくれる人間を、私は大切にしたいと考えている。
また、私との別れが彼らが自分の未来を生きることに繋がると信じているため、その決断自体を応援したい気持ちの方が圧倒的に強くなっているのである。
私の人生の舞台から降板する仲間に対して、「お疲れさま。次の舞台でも頑張って」その言葉を投げかけることはあれど、別れを惜しむことはしない。
私たちはいつだって未来を生きるのだ。
関係自体の希薄さがなければ、もしかするとこれまで語ってきた感情とは別のものが生まれてくることもあるのかもしれない。
しかし、変にのめり込みすぎず、あくまで私の人生の主役は私であり、その舞台を共に作り上げる仲間だと思うと、彼らの輝く未来を祝福しながら別れることもできる。
これからも多くの人と出会い、別れる中で、程よい距離感で、しかし人の決断を祝福できるよう余裕を持った人間として生きていきたい。