久々に会った彼女は、私の身長を越えていた。

彼女・ゆづちゃんと初めて出会った時、彼女はまだ2歳だった。
ゆづちゃんは職場の同僚の娘ちゃんだ。私と同僚の彼女は10歳程年が離れていたが意気投合し、休日にランチに行こうと約束した。そして予定通りランチを終え二人でだらだらとしていたらお迎えの時間になったのだ。
そこでお開きになるはずだったが、そのまま私もなし崩しに付いて行った。幼稚園のバスから降りてきたゆづちゃんは何故か母親である同僚を無視して通り過ぎ、少し遠くでママ友さんたちの邪魔にならないよう離れて見ていた私の方へ来て手を握ってくれた。そして私を見上げて「まこしゃん」と言った。

もうびっくりした。なんで私の名前を知ってるんだ、とか何でこっちに来たんだとか、色々聞きたかったけど、ゆづちゃんは勝手知ったる通学路を私の手を引いて家まで案内し始めた。
同僚によれば、「今日はママ、真子さんとランチしてから迎えに行くね」と朝言って聞かせたらしいが、それだけで私を“まこしゃん”認定したゆづちゃんの素直さというか柔らかさにメロメロになってしまったのは仕方がない事だと思う。

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その後、私はちょこちょこ彼女と遊ぶようになった。そのたびに彼女の素直さや自分のやりたい事への貪欲さを学ばせてもらった。幼い彼女といると幼かったころの私を思い出して、その対比もとても興味深かった。
彼女も私も長女であることは変わりないのに、私は彼女のように我儘を言わず大人と喋るのが苦痛で仕方なかった。気を遣うのが幼い私には難しかったのだ。気を使わなくていいよと言われて気を使わないように気を使う、そんな厄介で可愛くない子供だった。

だが、彼女は全く違い、大人だろうと子供だろうと話しかけに行くし、自分が何をしたいのかをはっきり言葉にした。そしてなにより凄いのは、彼女が言葉にしたら全てその通りになってしまうのだ。
「明日は晴れる!」と言えば天気予報を覆して晴れになったり、「アイスを食べる」と言えばひとかけらもそんな物売ってなさそうな道にアイス専門店が急に出て来たり。とにかく彼女は不思議と巡り合わせがよかった。そして叶えば「ありがとう」と言い、叶わなければ叶うまで言い続ける子だった。

そんな彼女も成長し、私も職を変えたこともあり、段々と会う頻度は少なくなっていった。それでも時々会えばあの天真爛漫さがあって、私はその面影に親しみを覚えていた。

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いつか本で読んだことがあるのだが、人は皆生まれた時は神様で、3歳までに入れられた言語で一生を過ごし、10歳で世間を決めるらしい。
その世間をこんなものだと決めた瞬間に神様は人間になる。三つ子の魂百までと言うし、10歳と言えば小学4年生くらいだ。確か2分の1成人式をした覚えがある。半分大人になる年だ。
ゆづちゃんもその境から、あの神がかった何かが薄くなっていった。それを感じたのはゆづちゃんが中学に上がる前、小学生最後の夏休みに会った時だ。

たまたま近くを通ったので、ふらりと挨拶がてら彼女の家に行った。皆喜んで招き入れてくれて少し世間話をした。
その時彼女に「ゆづちゃん、今どこか行きたいところある?」と何気なく聞いた。これは私のお約束の一言で、いつも彼女に聞いていた。常に彼女は行きたい所があって色々教えてくれたものだけど、その時はチラリと母親の顔を見て、「楽しいところがいい」と言った。

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ちょっとびっくりした。いやちょっとじゃない。どうした、どうしちゃったんだ、ゆづちゃん……!とプチパニックだった。
そして冷静になってから分かった。彼女は知ってしまったのだ、大人の都合ってやつを。お金の事とか時間の事とか成績とか評価とか。それを照らし合わせて一番当たり障りないのが「楽しいことろ」と言う漠然としたものだったのだ。
人間になってしまったのだ、ゆづちゃんは。

中学に上がってしばらくしてゆづちゃんにお祝いを持って行ったとき、彼女の身長は私を越えていた。持って行った時間が夕方で、彼女がちょうど塾に行くと言うので一緒に外に出た。
その時、私の手をひいて家まで導いてくれた小さなゆづちゃんを思い出した。今や彼女は私よりも大きくなって、昏い目で塾がいかに怠いかを話してくれた。
それを聞きながら、私は人間になって自由になっている先輩として、神様ゆづちゃんが教えてくれたことを今度は私が人間ゆづちゃんにお返ししていくんだろうなぁと。

つくづく世の中はよくできていると、1人頷いていたのだった。