学生の頃、服が足りないと思った。服だけじゃない。あれもこれも欲しいけど、どういう理由だったか、買いたいと喚いているだけだった。
でも、ある程度は買っていたと思う。家族では「くじらが一番たくさん服を持っているね」と言われた。周りの子たちに比べたら少ない方で、組み合わせを変えて、パターンを多く見せていたが、確かに、制服があった弟はともかく、両親は全然服を持っていない。少ないもので着まわしている。
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毎日私服でいる必要がないからかもしれないが、それにしても少ない。しかも同じものを、ずっと使い続ける。ヨレるか、穴が空くか、シミがつくかしないと、服も買い換えない。
会社でもその調子だそうで、ある日持ち帰ってきた、いかにも手作りな茶色いペン立ては、私が作ったものらしい。
作った本人が覚えていないほど昔の物だ。作ってから、15年は経っていると思う。机を整理するためにと持ち帰ってきたが、まだ家の片隅でひっそりと、ペン立ての役割を果たしている。
家電も少なくて、炊飯器と電気ポットはない。10年20年同じものを使い続けることも、珍しくない。30年以上使い続けられているものもある。ダメにならないから、買い替える必要がないそうだ。
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私にも、そんな価値観は遺伝してしまっている。昔からそう育てられてきたので、そんなもんだと思っていたら、周りは違った。
それでも楽しく生きていたら、白い目で見られることもあった。無視して突き進んできたが、この歳になって、つらくなってきた。多分皆が目指すものを、目指さないから言われるんだ。見下されているんだろう。
ちょうど読んでいた、稲垣えみ子さんの「寂しい生活」に、こんな文章があった。
理想の生活を挙げつつ、「いったいどこからこんなイメージを寄せ集めてきたんだか」と言い、これを「ただピカピカしたお洒落な雑誌で垣間見た有名人の暮らしを自己流に組み立てたシロモノである」と述べている。
その後には、「しかし情報社会の刷り込みとは現実以上に影響力を持つものなのだ」「曖昧模糊とした蜃気楼のような『夢』であるにもかかわらず、なんの疑いもなく自明のこととして、そのような暮らしを目指すのが当然だと考えて50年も生きてきたのである」と続く。「夢の実現とまではいかないまでも、我が暮らしは少しずつステップアップしていったのだ」としつつ、ここで路線大変更があり、「気づけば、かつての理想から1万光年ほどのはるか彼方にポツリと立つ私がいる」とあった。
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稲垣さんの言葉は、私の胸にも刺さった。
なるほど、蜃気楼なのに、自明のことと思って追いかけるから、しんどくなるんだ。皆しんどいんだ。そしてそこから離れることも、またしんどい。
ミニマリストの彼氏は、もうちょっと新しいものを、さらに少なく持っている。以前はプラスチック製品を、すぐに買い換えていたが、最近は木製品も持つようになり、同じものを長く使っている。
ミニマリストといえば聞こえはよかったのだが、同じものを持ち続けるのは、やはり貧乏くさい。「もう、そんなことは気にしなくていい」と彼は言っていたけれど、「ミニマリスト」という肩書きを持てるため、私よりマシな立場にいる彼氏でさえ、周りの視線が刺さるのを感じたことはあるらしい。
物を大事に使って、何が悪いというのだろう。ヨーロッパのものがよくもてはやされるが、それならこれもヨーロッパ的だと、褒めてもらいたい。
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しかし私も、考えを改めた。
今までいろいろ言われて、腹を立ててきたし、悲しかったけれど、そんな人たちは、相手にするのもバカバカしい。もっと大事なものを見よう。大切な人たちの方を見よう。両親も彼氏も、その周りの人たちも、質素な生活に肯定的じゃないか。
いろいろ恨めしく思ってきたけれど、人を憎むんじゃなくて、好きでいること。味方がいる方を見ること。そちらの方が大事だ。
私はこれからも、この道を生きて行く。その覚悟を、今固めなければならない。固めて、踏みしめて行かなければならない。
もしかしたら今後、もっと質素な暮らしをすることになるかもしれない。それもどんとこいだ。そもそも、私はこの暮らしが好きだ。信じられないかもしれないけれど、楽しくてならない。
この本で稲垣さんは、紆余曲折もありながら、どんどん家電を手放し、快適さを手に入れていく。心地よい生活に到達した稲垣さんの分析は冷静で、ユーモアもあり、読みやすい。
私はここまで真似することはできないけれど、こんな素敵な人生の先輩がいるなら、まだまだ頑張れそうだ。