私は、高校時代お世話になった弓道部の先輩方が引退したとき、泣かなかった。正確に言うと、泣けなかった。

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先輩方はみんな優しくて美人で弓道も上手で、私たち同期にとって憧れの存在だった。部活の時間のみならず、校内で会えば話しかけてくれたし、部活後に食事に行ったこともある。そんな先輩方も、高校3年のある大会で敗退し、残念ながら部活から去ることとなった。
私の所属していた弓道部では、大会が終わると会場の外で輪になって顧問も含めて反省会をしていた。引退が確定した後もいつもと同様に反省会をした。

先輩方は、自分たちはもう部活に行くことがない、大会に出ることもない、頑張ったのに負けた、様々な理由で涙を絶えず流した。続いて私たち後輩も、大好きな先輩方と弓道ができない、頼れる背中がもうない、先輩方にもっと先の大会に進んでほしかった、とボロボロに泣いた。

しかし、そんな中で私だけは冷静だった。泣きそうという感覚すらもなかった。鼻の奥がツンとすることもなかった。先輩方と毎日放課後に話すことはもうない、アドバイスをもらえることもない。それは私にとってすごく寂しいことなはずなのに、全くもって涙が出なかった。

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もちろん、私は泣かない人間ではない。卒業式やペットが他界したときなど、しゃくり上げて泣いたことは何度もある。それでもその時、私は泣かなかったのだ。周りはみんな泣いていても、私は泣かなかった。

私はなぜ泣けなかったのか。実は私は分かっていた。
白状しよう。少しだけ、いや心の奥では確かに「やっと引退してくれる」と思った自分がいた。先輩方がいなくなることに対して、ホッとしている自分がいた。それが泣かなかった理由である。

決して先輩方が邪魔だった訳ではない。嫌いだった訳でもない。頼りになる存在で、大好きだった。私にとって先輩方は憧れだったし、部活以外でも仲良くしてくださったかけがえのない存在だったはず。それでも、正直言うと自由にやれないという息苦しさはあったのだ。先輩方に気を遣って思うようにできないと感じることがあったのだ。

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そんなことを考えてしまっているのが、心から申し訳なかった。それでもそれが本心である以上、偽りの“悲しい顔”しかできなかった。憧れの存在で大好きで、そんな先輩方が部活からいなくなる。そう自分に言い聞かせても、涙が流れることはなかった。

そんな最低な自分に気付いてから1年後、今度は私が部活を去る身になった。
悲しいことに、私は自分が引退するときは泣いたのだ。ボロボロに泣いたのだ。私は、自分のことなら泣くのだ。さらに薄情だった1年前の自分を思い出して、ひどく悲しくなった。
そして、そのとき、私の後輩はみんな泣いてくれた。綺麗な涙で寂しい、寂しい、と泣きついてくれた。

私はなんて良い後輩をもったのだろう、そして私はなんて冷たい後輩だったのだろう。大会で負けた悔しさとは別に、悲しくて申し訳なくて泣いた。
泣くことが感情の全てではない。それでも先輩方が去ったあの日、一滴も涙を流さなかった私は薄情な人間だった。
私が泣かなかった理由、それは自分の奥底の黒い感情が原因だった。