退職の一件で疲れ切っていた私は、東北に受け止められ、励まされ、東北が大好きになった。
私は6月末で退職した。5月下旬に最終出社日を終え、有休消化で15泊16日、東北を旅した。青森、岩手、宮城、山形と回った。
それぞれ個性的で魅力的な場所が数え切れないほどあるが、華やかというわけではない。震災で大きな傷を負ってもそこから立ち直り、前に進む強さをもつ東北が、仕事で疲弊しきった私にとってこれ以上ない、適した旅先だったと思う。
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初日、青森駅に降り立った。
駅界隈には青函連絡船、電車、バス、遊覧船等があるが、こんなに時代の変遷を感じさせる輸送機関が集結した駅が他にあるだろうか。駅前のホテルに連泊し、夜風を浴びながら海上遊歩道を歩くことが、滞在期間中の習慣になった。
誰かに言われた言葉を思い出し深く考えてみたり、カメラを構えたり、毎日少しずつ違うことを楽しんだ。遠く光る灯台は赤だけかと思っていたら、数秒後には緑にも光り、これは退職を決めた後でなければ見落としていただろうと思った。
まだ旅は始まったばかりだが、何か足りないと感じた。音楽だ。青森といえば津軽三味線。思い立った次の日、津軽三味線発祥の地、金木へ向かった。
「走れメロス」という津軽鉄道に乗り、岩木山に見守られながら金木に到着した。津軽三味線は元々盲人芸で、昔はバチを打ち鳴らす派手さで競ったと言われる。抗えない運命に立ち向かう、魂の叫びのようなものが感じられる。仕事にもっと情熱をぶつけたいのに、環境が変わり、段々とぶつけることができなくなってきた自分と奏者がどこか重なった。
また、改札する時には何分か前に放送が入る。改札までまだ時間はたっぷりあるというのに、自分だけ先に駅員さんに切符を見せてホームに進もうとした。先を急ぐ旅ではないはずなのに、自分のせっかちさに気付かされた。
東北の冬の寒さは厳しく、人々がギリギリまで室内で待つことができるための配慮もあるのだろう。津軽は、太宰治の生きた時代にタイムスリップしたかのような時間の流れ方だった。
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6月に入り、新緑の奥入瀬渓流を歩き、生まれ変わるような気持ちがした。混浴もした。普段なら絶対思い留まっているが、退職を決め開放的になり、難なくやってのけた。
旅先でのアイスは定番かもしれないが、私はこれまであまりしたことがなかった。アイスを食べている時間がある位なら、一つでも多くの場所を巡りたいと、歩みを止めないタイプだ。しかし、急に平凡な楽しみ方をしたくなり、風呂上がり後、ソファに座りアイスを食べた。なんとも肩の力が良い感じに抜けた。
まだ眠っているE5系に挨拶をし、一ノ関で乗り換え、猊鼻渓に向かった。猊鼻渓では、人の手が入っておらずカモシカ位しか現れないような切り立った崖の間を舟で進んだ。中国ドラマに出てきそうで、日本にこのような場所があったのかと思うほど荘厳だった。
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旅もいよいよ終盤戦を迎え、蔵王では、沼を巡るべく草を掻き分け、ひたすら山の中を駆けた。看板間の間隔が広く、道が合っているか不安に思ってもとりあえず進むしかない。まだ雪も残っていた。ようやく開けた所に辿り着くと、たんぽぽが一面に広がり、春と出会った。地元の方に熊に出会わなかったかと心配され、人の温かさに触れた。
帰り、大露天風呂の源泉が流れる川で寝湯をした。寝返りを打つと川の上流、見上げれば蔵王の新緑と青空。素っ裸で今まであった嫌なこと全てを洗い流し、綺麗なものだけを全身で取り込んだ。
山形では、2時間に1本しか電車がない駅で降りた。もちろん、この旅に来るまで地名も知らなかった駅である。普段ならしようとも思わないトレッキングコースの入口に立った。
滝が見えるが、誰もいない。進んでいくと、途中で電波は途絶えた。さすがに次に見えてきた橋で折り返そうと決めるのだが、あともう少し進めば、さらにどんな景色が広がっているのだろうと思うと引き返しがたくなり、折り返し地点がどんどん伸びた。流れが緩やかになると、新緑を映したようなグリーン色の水面が広がった。心から癒された。
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また、お酒好きの私は、特に東北の日本酒が大好きだ。しこたま現地で試飲するつもりだったが、有料試飲機なるものが存在し、カップの線ちょうどまでしか注がれなくなっており、ちょっとサービスしてもらうというようなことは期待できなくなっていた。この旅で唯一、思惑通りにいかなかったことだ。
しかし、東北は我々観光客に「好きなら足を運び、いつでも飲みにおいでよ」と言っているようで、地元の品に誇りを持ち媚びない姿勢が、私はまた気に入った。
あらゆる路線に乗り、後半は1日2万歩弱歩き、ずっと訪れてみたかった所を全部回った。人はここまで冒険できるのだと感心した。そして、心の棘が少しずつ抜け、大らかな気持ちを取り戻せた。何でもできるような気がした。
ここまで解放されることは二度とないだろうが、これから先、落ち込んだ時や一歩踏み出したい時は東北を訪れよう、そう心に決めている。