私が見たあの街は、幻だったのかもしれない。
都会の住宅街の中に突如として現れた異世界のような場所だった。
私がずっと行きたかった場所、現代人が記憶の底に忘れてしまった場所は、もしかしたらあそこだったのかもしれない。

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あの場所と巡り会えたのは本当に偶然だった。
ICカードを道端で落としてしまい、警察署まで取りに行くという出来事がなければ、そもそもあの場所に行くことはなかっただろう。
私のICカードを拾ってくれた人には手間を掛けさせてしまって申し訳ないなという思いもあるが、その出来事がなければ私はあの場所に行くことは決してなかった。

あの場所に行くことになったのは、警察署から駅に行くまでの帰り道だった。
グーグルマップを使って駅まで帰ろうとしたが、私は電波と相性が悪いためなかなかたどり着くことができなかった。
グーグルマップを見ることが面倒になった私はフィーリングで住宅街の中を進んだ。
迷子にはもう慣れてしまっているので、時の流れに身をまかせるようにただただ歩いた。

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住宅街の中は車通りが少ない。都会ではいつも多くの車が車道を通っていたので、車が通らない道はどこか新鮮だった。
クラクションの音もアイドリングの音もなし。
あるのは風の音、自分が歩く足音、葉っぱが擦れる音、ぐらいだろうか。人の声もしない。
人の気配のない静かな場所を淡々と歩いていた。

これはあれだ。国民的なあの映画のワンシーンの一つだ。
“入ったらそこは異世界だった”系の表現がピッタリなほど静まり返っていた。

するといつの間にか大きな十字路についた。
十字路には昔の商店街の面影が残っていた。あれはきっとタバコ屋さんとか八百屋さんだったお店だ。
古い感じの自動販売機らしいものもあった。けれど、もう動いてはいない。
十字路の真ん中に少しの間立っていたけれど、相変わらず人の気配もない。車の音もしない。
あるのは静寂だけ。

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わたしたちはいつの間にか、この静寂を忘れてしまったのかもしれない。
いつもいつも急いでばかり。
車に乗って出かけたり、家の中でのんびりすることもあるけれど、あっという間に時間は過ぎていく。

でもあの場所は違った。
あそこはきっと時間が止まっているのだ。
古い建物が立ち並び、昔の人たちの面影がどこか見えるような気がした。
とても穏やかで忙しない日常を忘れさせてくれる場所だ。
人の気配が感じなかったのは、もしかしたら空き家だったからかもしれない。
けれど、そうだとしてもあの空間は無くしてはいけない。

あれはきっと私の理想なのだ。
忙しない日々の中でもみくちゃにされたときに逃げ込める唯一の場所。
それがあの場所だったのだ。

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あの場所を見た日、家に帰って出来事を思い出してみたが、その時ふとあの場所にはもう辿り着けないだろうと思ってしまった。
本当に異空間だったのだ。あんなに心地がいい場所はきっともう他にないし、出会うこともできないだろう。
わたしたちがきっとどこかに置き忘れてしまった場所だったのだ。

きっと、私はあの場所にはもう行けないだろう。地図を見ながら辿り着いた訳でもなく、ただ心の赴くままに歩いたから辿り着けたのだ。
私の心があの場所を欲していたのだ。

もう戻れない。あの場所には帰れないと、分かっている。
でも、その景色はまだ私の心の中に染み付いている。