28歳の私は、ボロボロだった。
故郷から遠く離れた友達なんて一人もいない土地で、ひとりぼっちだった。
目の前には破綻した結婚生活。
ご飯は喉を通らない、じっと座って仕事なんてしていられない。
手当たり次第、幸せな結婚生活を夢見て飾り付けた家のものを、ゴミ箱に捨て続けた。
20歳の頃からずっと苦楽を共にしてきた、最高の相棒だと思っていた。

8年間、相手を信じて幸せを夢見ていた結果がこれかよ。
自分が惨めで情けなくて、この溢れ出すどうしようもないほどの嘆きを、私は文章にしたためることで何とか生きながらえた。
苦しい、痛い、思い出したくない、向き合いたくない。
でも少しでも冷静になりたい、少しでも落ち着きたい、その一心で文章を書き続けた。

◎          ◎

そんなある日、私の文章にいいねとコメントが付いていた。
私と同じく20代のうちに離婚を経験し、より良くありたいと日々哲学を続ける素敵な年上の女性からだった。
あなたの文章は素晴らしい、あなたの考えは素晴らしい、とても感化された、そしてあなたを心から応援する。
悪意のかけらもない、真心のこもったコメントに目を疑った。
ありがたくて、胸の奥から涙が出てきた。
それはその日々の中でパニックになりながら自然と出てきてしまう涙ではなくて、誰かの真心に、誰かの愛情に触れて、心が癒されたことによって出てくる涙だった。
フォロワーも多くて人気者の彼女が、見知らぬ私に対してなぜこんなによくしてくれるのだろう。
宗教でも危ないビジネスの勧誘でも、もうなんだっていい、心から彼女にお礼が言いたかった。
私はあなたの真心によって、正気を取り戻し、心が癒されました、と。
そしてそんなやりとりを続けるうちに、私たちはいつの間にか、人生に起こりうる様々な出来事について語り合うようになった。

◎          ◎

そうして他人に支えられながら私は、今までずっと「正解」を求めすぎていて、ありのままの自分を愛せていなかったことに気付かされた。
この世界に正解なんて無い。
より良く生きようと、地べたを這いつくばって未熟な人間が悩みながら失敗しながら一生懸命生きてる世界に、正解なんて無い。
その事実を受け入れることで、他人に対しても、条件をつけることを手放していつも未完成でグレーで完璧じゃない私や友達をそのまんま愛したい、むしろ、正解が無いから魅力的なのだ、と気づき、彼女と友達になりたい、と思った。
正解にこだわらず、地べたを一生懸命生きる同志として、悩み、傷つき、苦しみ、その中で得た学びをシェアし合って、一緒に人生を楽しんでいきたい、と思えたのだ。

◎          ◎

ずっと他人と群れるのが嫌いで、一人で生きていた方が楽だと思っていた。
だから友達にもそんなに関わらなくていいし、誰の助言もいらない、誰の助けもいらないと思っていた。
でも、他人の真心の持つ凄まじさを知ってしまった今、友達とか恋人とか夫婦とかの垣根を超えて、他人と関わって生きていくことがこんなに学びに溢れているのかと、学べるということはこんなに幸せなことなのかと、かみしめるように実感している。

ひとりだって幸せに生きていける。
でも、私は彼女と友達でいたい。学びをシェアできる仲間として、思わぬ気づきを与えてくれる人生の先生として、他人と関わって生きていくことがこんなに幸せなことだと時折気づかせてくれるキーパーソンとして。