私は子どもが苦手だ。というより、もはや嫌いだ。
この宣言を公にするのは初めてである。内心びくびくしてしまうのが不甲斐ない。
私が子どもを苦手だと思う理由は、とても身勝手ではある。だけれど、「子どもが苦手」なことで感じざるを得ない生きづらさは、結構苦しいものなのだ。

日々生きているだけで、目の前を子どもが横切る瞬間は結構ある。たとえばショッピングモールやスーパーで、駆け回る子どもが行く手を阻む。その瞬間、苛立ってしまう自分を何度自責したかわからない。
隣にいる友達は子どもを見て「かわいい」と言う。私はその「かわいい」がわからない。

ここで指している“子ども”は、赤ちゃんから小学校低学年くらいまでの子どもだ。そして、「子どもから目を離す親が悪い論」と、「いっときも目を離さずに子どもだけを見ていることは不可能だ論」が巻き起こるわけだが、私は親になったことがないのでそこに対する意見はできない。
ただ、私は小さな子どもがとてつもなく苦手な人間で、それは何故なのか?と自問自答をし続けてきたので、「私はなぜ小さな子どもが苦手なのか」という問題の暫定的な答えを話したい。

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私は今まで、「子どもが苦手だ」という意思表明をできずに生きてきた。子どもをかわいいと思えないことは悪であり、子どもを愛せないことは非道であることのように思い込んで生きてきた。なぜならば、子どもが視界に現れた時、周りにいる者は大抵「かわいい」と口を揃えるからだ。
もしかしたら私のように本心を隠して建前を言っていた人もいたのかもしれないが、本心などわからない。私はその場で「かわいい」と言うことも、「実は苦手なんですよね」と言うこともできず、苦し紛れの愛想笑いをする。それは今でも変わらない。

私が子どもを苦手な理由は身勝手なものであると前述したが、それは本当に独りよがりな私情だ。
私は「子どもでいたかったけれど、大人で在らなければならなかった」幼少期を過ごしている。いわゆるアダルトチルドレンである。そのため物心がついて以降は、外で泣いたり地団駄を踏んで駄々を捏ねたりといった「子どもらしい」意思表示の仕方をした記憶があまりない。親を困らせた経験はさすがにあるが、私の記憶上では、私は随分と大人びた子どもをしていた。
そんな私が、自分自身を「もう子どもではない」と思うようになってきた頃、街中の表情豊かな子どもたちを見ていると、えも言われぬような苦しさに苛まれるようになったのだ。
そこには、「あの頃なりたかった自分」「あの頃やりたくてもできなかったこと」――叶わなかった、「子どもらしく在れる幼少期」が、鮮明に存在していたからであろう。

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私は小さな子どもに、あの頃の自分を重ねている。だから、子どもを見ていると苦しくなる。
大きな泣き声を聞けば、私もそんなふうに泣いてみたかったなと思うし、ところ構わず走り回って叱られる姿を見れば、私もあんなふうに弾けてみたかったなと感じてしまう。
ならば今からそうしてみればいいのかもしれないが、成熟した身体を手に入れてしまった今、本当の意味で幼少期の再体験をすることは難しい。
私は小さな子どもを見ていると悲しくなるから、子どもが苦手だ。そして、嫌いだ。これほどまでに身勝手な理由はない。それでも抗えないのだ。

この気持ちを誰かに押し付けるつもりはない。もちろん、小さな子どもに敵意をぶつけるつもりもない。だけれど、世の中にはこうして子どもを「かわいい」とは思えない人間も存在している。それを知ってほしいと思う。
私はあなたの「かわいい」を否定しない。だから、私の「かわいいと思えない」も否定しないでほしいと願う。一緒に笑い合えないことも、その違いを認め合えたらうれしい。
だから今度は、あなたの「苦手」を聞かせて。「みんな違ってみんないい」、それはみんなが意識できるようになって初めて成立する、「良い」だと思うから。