小学生〜中学生頃の話。私は常々、犬を飼いたいとねだっていた。
父はその願いを聞き入れようと5回程、犬を迎え入れる話を持ってきた。それはずっとずっとねだり続けていた私にとって最高に期待値のあがる出来事だった。

だが、どれも実現しなかった。いつも直前になってドタキャンになるのだ。
低学年の頃は「残念……」と思う程度だったけれど、何度も同じようなことがあったこと、そして成長して感情もたくさん知った私にとっては、両親を信じられなくなるくらいの深い傷を負った。

その日が来るのを楽しみにしていたのに裏切られる。大人の都合で勝手に無かったことにされる、そしていつも事後報告。
「今回は事情があるから見送ろう」
ふざけるな。大方、母が嫌がっているんでしょ。なら最初から期待持たせんじゃねーよ!
そんな言葉がグルグルと私の胸に渦巻いて、悲しみを怒りで誤魔化した。だけど当時の私は心を言葉にする術を知らなかったから、ただ黙って事の成り行きを話す両親を睨んでいた。

そしてその態度が母の怒りを買った。私は毎回分かってもらえないと嘆いた。
中学の時の裏切りを最後に、私は両親に犬の話をするのを止めた。だからそれ以降は犬の事で裏切られていない。だけどこの出来事から得た私の世界の見え方は、その先の人生をかなり深刻なものにした。

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『欲しいものは手に入らない』。これは知らず知らずのうちに私の中に芽生えてしまった。
そしていつの間にか私は欲しがらなくなった。自分の手の届く範囲しか求めないようになった。自分が心から望むものは手に入らない。その上、凄まじい痛みになるから、もう傷つきたくなくて目を背けた。

そうしたらやがて見えなくなった。一時期は自分の好きな色さえ分からなかったくらいだ。
だって好きな色なんて何でもいい、もし希望に添えなかった時、傷つくし。着たい服なんて何でもいい、好みの服を着て似合わなかったら傷つくし。

こんな感じで、「何でもいい」が口癖だった。食べたいものも何もかも自分の手の範囲にあるなら選ぶけど、それ以外は選べなかった。だって結局選んだって無駄だから。『欲しいものは手に入らない』から。

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その思考に気付いたのは本当に最近で、遡ったら犬の出来事たちが出てきたのだ。思い出した瞬間悲しくて涙が出てきて、いい年しながら1人でわんわん泣いた。
それでもスッキリしなくて、モヤモヤを抱えたままつい先月、母とカフェでお茶をしていた時にポロっとその話をした。

涙がこぼれそうだったけど何とか堪えながら言葉にすれば、今度は母が当時の自分の状況を語ってくれた。母も涙を堪えながら話していて、お互い同じくらいの傷を負っていたことを知った。そうして私はやっと当時の両親を許せた。

きっと中学生の私が聞いても納得できなかった。手の届く範囲しか求めてなかった私が聞いても納得できなかった。今、私らしく生きようと決めた私だから納得できた。

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この出来事から、私の「時」に関する認識が変わった。
時は一方方向に流れていて、過去は私の後ろにあると思っていたが、過去は遠い後ろにあるのではなく、同じ今この瞬間にあるのだと思った。

きっと私たちはいつも大事でもない過去も大切な過去も全部今に持ち続けていて、過去を思い出している時、体はこの場にあっても心は過去にいるのだ……なんてそんなことを考えた。

時が経っても痛いものは痛い。だって過去と今を行ったり来たりしているから、当時の痛みをそのまま今感じるのは当たり前。時と共に薄くなる痛みってのはきっと成長したことによって許容範囲が大きくなっただけで、痛みの度合いは変わっていないんだと思う。

だからその痛みを成長した私がどうするのか、それによって今が変わる。
今回は私の歪んだ考えはあっちこっちいく時のおかげで解消された、そんな気がしている。