私は午前4:43に生まれた。生まれたばかりの私は呼吸をしておらず、難産だったらしい。息をしてない私を母はひどく心配し、どうしたらいいかと狼狽え、私が息をしはじめると、泣いて喜んだと言う。
母と父にしてみたら待望の第一子だったらしく、私の誕生を父と母はじめ家族はとても喜んでいた。親戚もみな私のことを可愛がってくれた。私は悪くない人生を少なからず歩いている。

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でも自分が生まれたことについて、幸か不幸かと問われれば、私は今だいたい楽しく暮らせているのだからしあわせなのだろうけれど、そりゃたまには「もういっか、こんな人生終わらせちゃおうか」と嘯くこともないことはない。
そりゃそうだ。人生、誰にでも「何か」はある。それは他人には大きいことにも小さいことにも見えるだろう。でも、本人にしてみればそれは自分の「核」を揺るがすことであり、大小ではくくれない。

だけど、そんな私には結構昔から誰にも言っていない「しあわせの合図」がある。
それは目覚ましなしで起き、4:43を時計で確認できたときだ。
「しあわせの合図」は午後の4:43ではいけない。なぜならそれは16:43だし、私の生まれた時刻ではないからだ。私の「しあわせの合図」は私が生まれた時間と同時刻でなくてはいけない。

なぜ、4:43を見ることが「しあわせの合図」なのか。
それは自分が生まれた時間ということもあるし、そしてもうひとつ、私が母と出会えた時間だからということもある。

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私は親孝行な娘ではないし、今まで散々嫌なことを言ったりしては母を悲しませてきた。
私でなかったらもっと母と父はしあわせだったかもしれないし、妹だって苦労はしなかったかもしれない。しかし生まれてしまったのは私なので許して欲しい。私自身も「私などいなければよかったかもしれない」と思うときがたくさんあるし、母を恨んだときもなくはない。

だけど、私は母に面と向かって言わないが、母に出会えた私の誕生日は私にとっての人生の最良のきっかけだと思っている。こんな風に私を迎えてくれるひとはこの先このひとだけだろう。私は母の娘になれてよかったと恥ずかしながら思っている。
そして不思議なことに4:43を見られた日はいつもラッキーなことが起きる。生まれた時刻を見るとラッキーなことが起きる=私は神様に祝福されて生まれてきた、ということにしている。そのことをつらくてどうしようもないときに思い出しては、自分をどうにか奮い立たせようとしている。

だから、私の毎日の4:43はいつも特別なのだ。
このことについて、私は誰かに言ったことはない。
トップシークレットなので誰にも言わないでおいてもらいたい。

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生きていて「明日なんて来なければいい」と泣く日もあるし、「早く明日になって欲しい」と遠足前の子どものように眠れない日もある。死に際は人それぞれだしそれに関して何かを言う気はない。

だって、そうだろう。人生にはたくさんのことがあって、人それぞれ苦しみは違って、だからこそしあわせもそれぞれ別物で、その中にあるたったひとつにいつまでも焦がれ続けるのが人生だろう。人の苦しみは本当には他人に理解できない。しゃしゃり出て来て誰かの死にとやかく言える人間はどこにもいない。

ただ、私には今、自分以上に愛しい存在がいる。大事にしたいひとがいる。そんな素敵な機会をくれた母に感謝を込めて私は次の「しあわせの合図」が来るのを待つ。