また食べたいあの味は、母の卵焼きだ。
しかもそれは焼き立てではなく、お弁当に入った、あの、冷めた卵焼き。
甘じょっぱい味のする、母の卵焼きは毎日必ずお弁当に入っていた。
好きなものは最後に食べたいタイプだからいつもお弁当の最後に食べていたっけ。

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愛しの卵焼きと共に思い出されるシーンはたくさんある。
友達と机を移動させて囲んだ毎日のお昼休みや、大嫌いな担任に怒られた後、納得いかない気持ちでお昼になった時も当たり前に私を迎えてくれた。
学校に行きたくなくて仮病で休んだ日の昼、家で「笑っていいとも!」を見ながらお弁当を食べたときも当然のようにあの少し色の悪い卵焼きは入っていた。

作ってくれたのに学校に行けなかったあの後ろめたさや、明日は行かないといけないなと苦しくなるあの感じと共に飲み込んだ。
罪滅ぼしにもならないのだけど、お弁当箱を洗うパフォーマンスまで見せた。

高校を卒業してから母にお弁当を作ってもらうことはめっきりなくなったが、すっかり都会に染まった私はしばらくはそれが恋しくなることもなかった。
久々に母の卵焼きに会ったのは2年前。
私が27の時で、一緒に食べたのは産後間もない姉だった。私たちは手術の待合室にいた。

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姉の赤ちゃん、つまりわたしの姪は生まれてすぐ難しい心臓の病気がわかった。父も同時期に入院していたことから、付き添いができなかった母に代わり、姉の為にお弁当を持って行った。
母に持たせられたお弁当をリュックに詰め、病院に向かった。
コロナ禍ゆえの何重ものチェックを越え、向かった新生児フロアで初めて会った姪が驚くほど小さかったことに言葉が出なかった。
姉の腕の中でたくさんの管に繋がれた姪は、お腹を大きく膨らましたりへこませたりしながら懸命に息をしているのだ。
入院もしたことがない、健康すぎた私からは想像もつかないその呼吸を、生まれて間もない彼女が懸命に紡いでいた。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚くて、同時にものすごく愛しくて涙が出そうになった。
小さな小さな姪が姉の腕の中から離れ、看護士さんの腕の中に移ると、銀色の手術室に流れるように入っていった。私はただ何もできずそれを見ていた、ただ泣かないように。それだけだった。

地方の市立病院の待合室は電波が届かなかった。スマホを見て気を紛らわすこともできず、待合室のテレビをただ無感情で見ていた。
「お母さんのお弁当、食べる?」
姉に聞くと「食べる」と答えた。
病院では、母親には食事は出ないため、病院にあるコンビニのお弁当ばかりでいい加減飽きていたらしい。
どんな状況でも母の味はエネルギーだ。久々の母のお弁当に、姉の表情が少し綻んだのが見えた。

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「毎日さ、絶対この卵焼きお弁当に入ってたよね」
「うんうん、もうこれだけは絶対ね、あとは冷食なんだけどさ」
「でもなんか飽きないよね」
と笑い合った。
歳の離れた姉も私と同じお弁当の記憶があることをむしろ新鮮に思いながら、昼のワイドショーだけが響く薄暗い待合室で2人でお弁当を食べた。

姪の手術は、約12時間続いた。
私は、その時間経過に打ち勝てず正直食欲もなかったし、何度も席を外して涙を流した。
1番つらいはずの姉は、定時になると搾乳に行き当たり前のように残ったお弁当を食べるなどしていた。

母は、強い。
あらためて知った瞬間だった。
いや、「母になると強い」というのが正しいのかもしれない。
母になった姉は、強かった。
気丈に過ごす姿に、姉が母になった瞬間を目の当たりにした。

12時間の手術を越え、汗だくの主治医が待合室に来たが、ちょうど席を外していた姉に気づかず私に説明をし始めたことは今では笑い話だが、
「あぁごめんなさい!私じゃなくて!」
と急いで姉を呼んだあと、手術は無事に終わったことがわかった。

あれから2年、今は姪がぶんぶんとフォークを振りながら自分でご飯を食べるようになった。
かわいいプレートの上には不恰好な卵焼きがあった。母の卵焼きによく似た、姉の卵焼きだ。
母は強い、そして母は愛を込めて卵焼きを作るのだ。