あれはわたしが中学三年生の夏。

志望校の英語科主催のスピーチコンテストのポスターを、校内で見た。
ないない!無理無理。人前でスピーチ。それも英語でなんて。
そっとスルーしたその日のうちに、担任の先生が、
「出るべき出るべき!だってこの高校行きたいんでしょ!」
とわたしを激励した。
お調子者で実に乗せられやすいチャーミングなわたしは、まんまと煽られてスピーチコンテストへの出場を決めた。

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が、決めただけでは出られない。まずは校内選考を受けるべし。そのために英文の3分半のスピーチ原稿を作成し、暗唱できるようにならなくてはいけなくなった。
勢いだけで「やります!出ます!」と言ったことを光の速さで後悔したが、いまさら嫌ですとはかっこ悪くて言えるはずがなかった。

幸いにも、スピーチ原稿は好きな英語の本やテキストを引用したものでよく、それも英語の先生が、スピーチ原稿としておかしくないように指導してくれた。
ものすごく簡単そうに言ったが、一介の中学生である。好きな英語の本なんてあろうはずがない。かなりかなりかなーり、長い時間をかけて悩んだが、わたしはこの本を選んだ。

ロバート・フルガム著の「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」。

要約するとこのようなことが書いてある。
分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものを元のところに戻すこと。
散らかしたら後片付けすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたらごめんなさいということ。
食事の前に手を洗うこと。
毎日、少し勉強し、考え、絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと。
昼寝をすること。
表に出る時は手をつなぎ、離れ離れにならないようにすること。
不思議だなと思う気持ちを大切にすること。

わたしが赤ちゃんだった頃のアルバムに、母がこの文章を書き写してあったのを見つけ、「この本しかない」と決めた。
母はわたしに、立派になってほしいとは子どもの頃から一度も言わなかった。人は楽しむために生まれてきたんだよと言った。

言葉の通じない赤子を育て、日々ヘロヘロの疲労困憊、毎日が嵐のように過ぎていく中で、この本を知った母の気持ちを思うと、なんだか胸が締め付けられる。

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指導を受け、原稿はとうとうできあがったが、「スピーチ原稿を覚える」のは人生で初めて。何度も何度も繰り返し唱えても覚えられない。
これ、いつ覚えられるの???
弱腰になりながらも朝からずーっとずーっと念じる念じる念じる。もういっそ辞めてしまいたい。校内選考にも行きたくない。ああしんどい。疲れた。
しかしやがて……。

「言えた」
全部言えた。3分半のスピーチを暗記した。信じられずに、もう一度。
……うん。やっぱり、言える。完全に覚えたんだ……!

次第に興奮が全身に広がり、キャーキャー言いながら階段を駆け下り、母に「覚えたよ」と自慢した。
母はわたしを、まるで宇宙飛行士試験に合格したかというほどに褒めに褒め、えらいえらいと労ってくれた。

ひとしきり褒めてもらうと、そのまま母と一緒に出かけ、近所のスーパーでハーゲンダッツのクリスピーサンドを買ってもらった。
車の中でハーゲンダッツを貪り、もう世界一幸せだと思った。
そして、「努力って楽しいんだな」と実感した。努力や根性や情熱というような、暑苦しいけど確かな頑張りを、素晴らしいものだと感じた。

その後、校内選考は無事に合格。英語科のスピーチコンテストでは入賞できなかったものの、中学校の文化発表会で全校生徒の前でスピーチする機会を与えられ、そちらは大成功だった。

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志望校であった高校卒業後は、看護学校に行きながら英検準1級を受けつづけ、なんと5回も不合格だったが6回目で合格した。

いまわたしは看護師になり、英語に関わる職に就いていないが、変わらず英語を愛している。
奮発してハーゲンダッツを買う時には、必ずあの日のスーパーで買ってもらったキャラメル味のクリスピーサンドを思い出す。
自分の産んだ子が、自分が24時間お世話してオムツを替え、ミルクを与え、安全を守り、機嫌を取らなければ生きていけなかった子が、思い出の本の英文を覚えた時の母の気持ちは、どんなものだっただろう。

立派にならなくていい。でもズルしたり、人のものを取ったり、人を傷つけたりしてはだめ。楽しく、生きること。
そして、熱中できるものを見つけて、努力するのはとっても楽しい。
それが分かった、わたしだけの記念日。あの夏の暑い日の車の中。キャラメルの甘い香りと共にいつでも思い出せる。

わたしにはこれから叶えたい目標がある。
遥かなる高み。英検1級だ。
いつの日か合格できたら、母はあの日のようにきっと大はしゃぎに褒めてくれるだろう。でもその一方で、頑張らなくていいんだよと心からの本音で諭してもくれるだろう。
フルタイムで毎日働いて子どもたちを育てながら取れるほど、1級取得は甘くないことは承知の上だ。でも絶対に取るぞと決めている。
だってまた褒めてもらいたいじゃない。