私の祖父はとても器用な人だと思う。
器用で優しくて強いけど、きちんと弱くて繊細な一面もある。
祖父は料理を作るのが好きで、会いに行くとキュウリのからし漬けや、野菜とお肉がゴロゴロ入ったカレーライスを出してくれる。
私が「おいしい」と言うと、祖父はうれしそうな顔をして静かにニッコリと笑う。
その笑顔は祖母が見せる笑顔とあまりにもそっくりなので、私もつられて笑ってしまう。

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あれは私がまだ高校生のときだっただろうか。
窓の外は真っ白な雪景色で、家族全員が揃っていたから恐らく年末に会いに行ったときのことだと思う。
雪が深い道を父が3時間近く運転し、昼過ぎに祖父母の家に着くと、「よく来たなあ」とうれしそうな顔をして、ふたり仲良く出迎えてくれた。
荷物を置いてリビングに向かうと、こたつの上には出来立ての鍋焼きうどんが置いてあった。
「今、温めてるからな」
台所には、あらかじめ用意していた鍋焼きうどんに火をかけている祖父の姿があった。
5人家族だった私たちに合わせて、鍋もきっちり5つ分。
あのとき、祖父母も私たちと一緒に鍋焼きうどんを食べたのだっけ。
どれだけ思い出そうと試みても、記憶は視界の悪い雪道のように今もぼんやりとおぼろげだ。

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それでも、と私は思う。
土鍋の蓋を開けるときの高揚感や、立ち上る湯気の中に見た具材たっぷりの鍋の中、やけどしないように気をつけながら息を吹きかけて食べたうどんの味は、この先どれほどの年月が経っても忘れることはないだろう、と。
きっとそこにはお腹を空かせてやって来る私たちを思って、少しでも温かいものを食べさせてあげたいと思った祖父の愛情が込められているからなのだろうと考える。
私たちが到着するまでに鍋の中に具材を入れて、電話越しでそろそろ着くことを伝えたときから鍋に火をかける祖父の姿を想像すると、私はたまらない気持ちになってしまう。

その後も祖父はいろいろな料理を作ってくれたが、鍋焼きうどんを作ってくれたのはあの一回きりだった。
たった一回きりの鍋焼きうどんが、私にとってまた食べたいと思える唯一の味なのだ。

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そしてそんな祖父も祖父母の家も、私が歳を重ねるごとに小さくなっていく。
幼い頃はひたすらに大きく迷路のように思えた家も、ある時点からこんなに小さかったっけと、さみしさのようなものを覚えるようになっていた。
大きな体と大きな手、大きな声で話す祖父の姿も、やはり家と同様に小さくなっていた。

だけど今は、かつてそこに浮遊していたさみしさは感じない。
「よく来たなあ」と笑ってくれる祖父母がいて、懐かしい匂いのする家がちゃんと存在しているから。
大切な何かを大きく損なう経験をしたことがない私は、きっとまだまだあまちゃんなのだろう。
考えたくもないいつかは、私も含めて必ずいつかやって来る。
頭では分かっていても、受け入れられる自信もなければ、そんなことは起こるはずがないと信じきってしまっているのだ。
いつまでも、なんて言葉は薄っぺらなのかもしれない。
そうと分かっていても、やっぱりいつまでも2人とも元気で、長生きしてほしいと願わずにはいられないのだ。

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夏の終わりに会った祖父母と、次に会えるのは年始になるだろう。
どれだけ小さくなった祖父でも、帰り際に握ってくれる手の力は変わらない。
どこまでも温かく、心のこもった握手を交わすうちに私は元気になっている。
雪が降りしきる祖父母の家で、あの日食べた鍋焼きうどんの作り方を教えてもらおうと、今から密かに計画している。