うちはあまり旅行をしない家族だった。絶対しないわけじゃないけど、大型連休にどっかいこうか!みたいなノリの家族ではなかった。
かなり会話の少ない家族だった。そんなわけだから、一度旅行に行けば鮮明に記憶が残る。
どこに行ったかは忘れてしまうけれど、景色や感情は今でも簡単に思い出すことが出来る。ただ子供の頃の私は母の機嫌ばかりを窺っていたから、心から楽しい思い出というよりも、ヒヤヒヤとか不安だとか焦りだとか、あまりいい印象は出てこない。そんな中、強烈に美味しいと思ったものがある。

それは旅館の夕食で出てきた、サザエである。

◎          ◎

サザエのつぼ焼きだった。
一見食べ物とは思えない、綺麗とは言い難い色をした貝が家族分やってきた。
頭に「?」を浮かべた小学生の私をよそに、父はわざとらしく「お?うまそうだなぁ!」と嬉しそうにサザエをとった。

ちょっと話がずれるけど何故わざとらしく、と書いたかというと、これも母のご機嫌取りが入っているから。「ほら楽しい」「ほら嬉しい」「ほら家族みんなでハッピーだね」ってあからさまにやらないと母の機嫌が悪くなるのだ。「なんでみんな嬉しそうじゃないの」って怒り出す。「私ばっかり気を使って旅行企画したのがバカみたい」って怒るのだ。
私は慣れない感情を頑張って表に出す父の姿が痛くて痛くて可愛そうで。あまりに大げさすぎて母の機嫌を損ねないかとヒヤヒヤして――と、こんな感じで私の旅行の思い出話は終わらせよう。そんな感情の中でも強烈に美味しかったという事が言いたかったんだ。

◎          ◎

父は器用に長い銀の串を使ってにゅるんと身を取り出した。出方もあまり美しくなく、カタツムリみたいな先端は黒に近い深緑。
「腐ってる!」。見た瞬間にそう叫んだ気がする。第一印象は最悪である。
父は苦みの強いカタツムリ部分を食べて、白乳色の身の部分を私にくれた。ただ全部綺麗に白乳色というわけじゃなく、筋やらなんかよく分からない部分は黒くて口に入れるのが怖かった。が、意を決して食べてみれば濃厚な貝の旨みが口いっぱいに広がり、感動したのを覚えている。全貝類の美味しいところが凝縮して詰まっている気がした。

何味?これ何味?!旨い!コレ旨い!
初めての味覚に大混乱。本当はもっと食べたかったけど家族分しかなかったし、お金がかかったらお母さんの機嫌が悪くなるかな、と思い、1人ひっそりもちゃもちゃと噛み続けた。
こんなに美味しい貝なら父が食べてたところも味わいたい、と父に小さい声でお願いしたら、少しだけあの黒い緑色部分を千切ってくれた。
今度は怖がることなく食べる。そして一瞬で吐きだす。舌についた瞬間口全体に苦みが広がった。あれはこの世全ての苦みが凝縮された塊だった。
小指の爪くらいなのにこの破壊力、私は父が美味しいという姿が狂気の沙汰に見えた。父はと言えば貝の苦みに想定通りの行動を起こした私をジッと観察してから、「これが大人の旨みってやつだ」と笑った。

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あれから随分時が経ったけど一度もサザエを食べていないな。旨みの印象も強いけど苦みの印象がさらに強いんだよな。
そして父に言われた「大人の旨み」。大人になったら大人になったらと先延ばしにしていたような気もする。
もういい大人だし、そろそろあの味をまた味わってみようか。今度は苦みも一緒に。