初めての経験というのを、私は忘れずに思い残したいと思う方だ。
初めては貴重だ。その経験をするまでの過程や心情を味わうことは、もう二度とできないからだ。一段一段ゆっくりと上っていたことは、慣れると二段三段と躊躇なく一気に飛び越えられるようになる。年を重ねるにつれて、それは自信や余裕に繋がるけれど、頻繁に新鮮な気持ちになれた昔をどこか羨ましいと思えることがあるのだ。
◎ ◎
「今からイルミネーション見に行かない?」
ショートケーキを口いっぱいに頬張りながら、私は当時の彼氏に提案する。
我々は先ほど、スポンジより生クリームの層の方が厚い贅沢なケーキを作るという任務を終えたところだ。お互いの活躍を称え合いながら、試食会を催している最中のことであった。
実は私はイベントにあまり思い入れがない。クリスマスだから何かしようだとか、どこかへ行こうだとか正直興味がない。
けれど今年は違う。
大学に入り、初めて彼氏ができた。彼氏と迎える初めてのクリスマスを楽しみじゃないはずはないのだ。恋人がいると、無関心だったイベントも、意味のある大切なものに思えてくる。
だからクリスマスイブの今日は、前から一緒にケーキを作る約束をした。インドアで人混みが苦手な私たちにふさわしい、おうちクリスマスだ。
他にも私には楽しみにしていることがあった。
初キスだ。
彼氏とは付き合って半年も経つのに未だに進展がなかった。恥ずかしがり屋で草食男子の代表ともいえる人なので、致し方ないとはいえ、流石の私も痺れを切らしていた。
かといって、自分から畳み掛ける勇気もない。彼からアプローチして欲しい気持ちもあったので、ずっと待っているという状況だった。
手を繋ぐのにも2ヶ月かかった我々。今日という機会を逃してはならない。私は不純な使命に燃えていた。この日のフィナーレを彩るべく、クリスマスイベントをここぞという時に利用する。
◎ ◎
イルミネーションは、彼の家から近い駅で開催されているものを観に行くことになった。
駅から一直線に続く、単色でカラフルな電飾は、どこか懐かしく温かい気持ちにさせてくれる。都会と比べると洗練さや高級感というものはないけれど、家族連れや若いカップルが集い、優しく穏やかな雰囲気を作り上げていた。キャラクターを模した飾りや、アーチ型のキラキラと光るトンネル……普段ならすっと通り過ぎる所を丹念に目に焼きつける。
突き当たりまで進むと、パルテノン宮殿のような大きなオブジェが現れた。長い正面階段を上ると小さな池があり、こうこうと輝く白鳥が浮かんでいた。うっそうとした木々に囲まれ暗闇が広がる中、白鳥は神々しくとても幻想的な光景だった。
◎ ◎
しばらく見惚れていると、突然彼が私の手を引っ張り、脇の小道にそれた。
「え?どこに行くの」
聞いても曖昧な返事をされ、人気のない一帯を彼は私の手を繋いでぐるぐると徘徊し始めた。彼の余裕のない表情をみて、すぐにピンときた。
もしかして、キスしようとしてる?え、今?え?え?
確かにその機会を虎視眈々と狙っていた私。けれど外だし、歯も磨いてないし、心の準備もできてない!と彼とは違う心境で焦ってしまう。
ようやく石塔の影に最適な場所を見つけたのか、私と向き合いじっと見つめてくる彼。
あー、どうしよう、どうしよう。もう逃げられない。覚悟を決めなきゃ。
彼が私の肩を掴み顔を近づけてくる。私も目をつぶり、身を委ねる。
カツン。
勢いのあまり、歯が当たってしまった。
「いったあ……下手くそ」
私は初めてのくせに、恥ずかしさのあまり文句を言う。
「ごめん」
彼は少ししょんぼりしながらも口を覆ってよそ見をする。
「ねえ、もう1回」
◎ ◎
駅までの帰り道、私はとても嬉しくて子供のようにスキップをしながら歩いた。あんなに凝視していたイルミネーションに目もくれず、幸せと高揚感でいっぱいだ。お預けを食らった犬のように、ずっと待っていた私には最高のクリスマスプレゼントだった。
彼はまだ恥ずかしそうに私の横を歩いていた。思うところは少々あるけれど、とりあえず彼には頑張ったで賞をあげたい。
クリスマス、私にとっては初めてキスをした日。
「明日も出掛けようか」
彼がポツリと呟く。が、直ぐに我々はまた新たな試練を迎える。
改札で見送られながら、今日泊まっていきなよと言えない彼に、私は複雑な心境を抱えながら手を振るのだった。