今年、私は25歳になった。
25年、生きてきた。四半世紀も生きてきたし、四半世紀しか生きてきていない、ともいう。
まだまだひよっこで何にもできない一方、可能性は高校生や大学生のころと比べればない。
否、ないというよりもエネルギーが必要なのだ、単純に。三十路があと5年先に見えている上で、新しい進路を考え、実行するのは多分すごくエネルギーがいる。

その割に、未来は未定のままだ。5年後の30歳で私はかがみすとではなくなることはわかってる、でもそれだけだ。その時今の会社にいるのか、はたまた結婚はしているのか。そんなことなんて一切わからない。

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そんな中で、先日、同い年のアイドルが新しい道へ進むことを発表していた。
SNSは阿鼻叫喚だったし、友人はそのアイドルが好きだったから色々精神的に堪えているようだった。私も正直なところ驚いた。だけど、一方でそうか、とも腑に落ちた。

彼らのように、芸能人という側でも25歳は25歳なのである。新たな道へ進むというにはエネルギーが必要なのだ。彼らも。そんなことをスマホ片手にポテトチップスをつまみながら思う土曜日の15時半。怠惰の極みだと思う一方、焦っていないわけでもない。

書くことは好きだ。今の会社だって好きだ。だけど自分の将来像に、そのどちらも見えてこない。びっくりするくらいに。

書くことが好きで始めたライター業は、確かに楽しかったけど茨の道だった。税金とか、そこらへんの問題もある。そもそも稼ごうと思ったら必死だし、その割に不安定で、なんならインボイス制度が始まる中、また個人事業主に戻る自信はない。

だけど会社員だって将来の姿が見えない。なぜか。今の会社は最高なのに。上司にも同期にも恵まれて、だけどなんでだろう、5年後何しているのか、が見えない。会社員をしている自分がわからない。だけど、結婚もできてなさそうだし、だからといって独り身なのかもわからない。

そもそも、来年自分が何しているのか、わからなくなってきている。夢をすっぱり諦めて観光業界まで蹴って事務職に就いた自分が、本気でわからないからだ。

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大学時代はそんなことはなかった。大学2年生までは本気で院生になると思っていた。そもそもそのために学科まで変更した。なんなら教授に媚を売っていた。院生になってせめて助教くらいまではなれるのだ、と本気で思っていたのだ。

今考えると勉強不足にも程がある。そして諸々の事実を知り、その未来はないなと思うと次は公務員になるか観光業界に入るかだと思っていた。そのために法律の勉強も半端にしたし、公務員試験講座も受け、職業説明会も観光業界と公務員両方に行った。そして一番熱心に質問しメモを取り帰ってきた人間だ。

その全てが今、裏切られてる。他の誰でもない自分によって、だ。あまりにコロコロ変わりすぎて、霧の中で初めてのジェットコースターに乗っている気分である。一寸先は闇、ではなく一寸先が未定なのだ。

もちろんコロナとかいうそれこそ未定の出来事があったけれど。だけどそれ以上に自分が一番わからない。土壇場でどうしてそういう決断だったんだろう、という時が多いし、そもそも決断を迫られる瞬間が多すぎる。
25年生きてきてわかったこと、それは自分は過去から何も学ばないどころか一瞬の判断だけで生きているということだ。

端的にいうとアホである。アホで、とんでもなく運任せ。それが自分という生き物なのだと思う。

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ただ、それが最近では諦めとともに、仕方ないから前を向くか、に変化していることも事実なのだった。

もうこの生まれ持った性分はどうしようもない。どれだけ周到に考えを巡らせ用意をしても、その用意を超える何かがあるのだ、人生には。まさかの自分が一番どうしようもない存在だとは思わなかったし、何より変えられるのなら変えてもいいと思う。だけど、多分変わらないのだろうな、と経験則的にそう思っている。

じゃあ、どうしよう。
じゃあ、一寸先は未定、を楽しむしかない。
だってどうせ、自分でさえそんな存在なのだから他人はもっとわからないのだ。理想も計画も立てたってどうせ崩れるし、そんなうまいこといかない。じゃあ未定を楽しんで、甘受して、それで生きていこう。

もしかするとこれは人生の迂路であり、ゴールまでは遠いことなのかもしれない。だけど、人間の一生のゴールには確実に死が待ち受けている。ならば先にゴールにつくより、散々回り道をして楽しんだ方がお得なのだと思う。
明日なんて誰にもわからない。でも一寸先は闇でも、ハレーションでもない。
自分が知らない景色が待つ、それだけなのだ。