「結婚している自分が想像できないの」
婚約破棄の夜、私はそう言った。3年付き合った恋人との別れだというのに、ベッドの上からかけたLINE電話だった。

彼は取り乱したし、大昔の浮気を謝ったし、気に入らないところは全部直すと言ってくれたし、その声音の切実さに私の心はちょっと揺れた。けれど、残業のせいでパンパンになった両脚を宙に伸ばして浮腫みをとりながら、私は同じ言葉を繰り返した。

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「分かった。でも最後にひとつだけ聞きたい」
3時間にわたる押し問答の末、とうとう彼は白旗を上げた。
「相手が俺だから結婚したくないの?それとも、結婚自体に興味ない?」
ずるい、と思った。こんな絶望的な涙声で途切れ途切れに話す婚約者に対して、「あなたとだからだよ」と言えるほど、非情な女にはなれなかった。
「そうか」
答えを聞くと、彼はどこかほっとした調子の声を出した。その安堵の声色から、彼の望んでいた方の答えを言い当てたのだと私には分かった。
「れい子はキャリア志向だもんな。応援してるよ」
電話は切れた。

同級生の彼とは、社会人になる直前に付き合い始めた。互いに社会の厳しさにもみくちゃにされながら、その辛さから逃げるように夢中になって愛を深めた。
半同棲を始めてからは喧嘩も増えたし、他にも色々いざこざはあったが、概ね幸せだった。彼も同じ気持ちだったことを願う。
正直に言うと、結婚に興味がないわけではまったくない。まだ早いという感覚があるだけで、いつかはしたいし子どもだって欲しい。ただ、その「いつか」がいつ来るのかは分からない。

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付き合うことになったその日に、私とは「結婚前提だと思っている」と言い切ったほど結婚願望の強い彼は、その「いつか」を待ち続けることにだんだん疲れを見せてきた。それで一度は浮気にも走った。
「具体的なボーダーはいつなの?」
これが彼の口癖だった。
「30歳になったら?係長になったら?難易度の高い資格を取ったら?小説が入賞したら?」
もしも今「ボーダー」がいつかと問われたら、この尖り過ぎた反骨精神が多少丸くなってきた時、と答えると思う。

「女の子なのに浪人する必要はない」と言う父に反発して、父の出身大学よりも名門の大学に現役で進学した。専業主婦としての母の生き方に反発して、大手企業で男性と肩を並べて仕事に打ち込んできた。子育てを言い訳にダイエットから逃げ続ける母を尻目に、いわゆるモデル体重を必死に維持してきた。
彼だって、そんな私に恋したのだ。女友達に彼を紹介したい、見せびらかしたいという虚栄心がくすぐられるほど、彼は素敵だった。
彼との恋愛は、今までの私の努力の帰結として申し分のないものだった。けれど結婚は、あまりに惨めなものに思えた。何も成し遂げていない25歳の若さで落ち着いてしまうことの焦燥感や所帯じみることへの恐怖を、乗り越えられなかった。

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結婚しても努力し続ければ良い、頑張り続ければ良い、自分を磨き続ければ良い。
分かっている。頭では理解している。けれど、結婚したら、子どもを産んだら、経済的にも時間的にも様々な制約が生まれてくることは目に見えている。
今だって24時間フルで有効活用しているわけでは全くないくせに、そういった制約を思い浮かべると、途端に自由が惜しくなる。やりたいことのカケラのようなものが、次から次へと浮かんでくる。

相手が違えば、もっと年を取れば、結婚する気になるかもしれないとぼんやり思うことがある。
中学生の頃から、もしも子どもを産むなら20代で一人目を産むと決めていた。だから29歳になれば、焦ってそこまで好きでもない男性と結婚するのかもしれない、そしてものすごく後悔するときもあるけれど、子どものためと割り切って夫に連れ添うのかもしれないと昔から思ってきた。
けれど、最近の自分のナイトルーティン(寝る前にスマホで婦人科のHPを見漁り、卵子凍結の費用を比較すること)に鑑みると、近々私はその年齢的な焦りからすら解放されてしまうのかもしれない。
その時を切実に待ち望むと同時に、少し怖いと感じている自分がいる。