「他校の友だちと話したら、今月はみんなラスト・クリスマスだったから笑っちゃった」
これは、昨年まで勤めていた中学校のサッカー好きの男子生徒からの一言だ。
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わたしの担当した英語の授業では、毎月洋楽を1曲選んで深く考察することにしていた。この手の授業を受けた人はきっと多いことだろう。そしてクリスマスシーズンになると、ワムの「ラスト・クリスマス」か、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」にするか悩むことになる。
この年わたしは比較的歌いやすいラスト・クリスマスにすることにしたが、どうやらその選択をした英語科の先生が多かったというわけだ。
この曲を扱う際で最大のメッセージになるのは「ラスト」の訳だ。
日本語でも「ラスト」はよく使う英語だが、多くは「最後に」という意味で用いる。なかなか「昨年の」の意味合いでは使用しないために、1ヶ月通して曲に触れることで、少しずつ身体で2番目の意味を身につけていく。
でも次の曲に変わる前になると、ちょっと意地悪な質問をしてしまう。
「本当に『最後の』クリスマスだったらおかしいかな」
すかさず読書好きな生徒が一言。
「おかしくないと思います。もう、この人が別れた恋人と過ごしたようなクリスマスは『最後』かもしれないから」
中学1年生って、随分大人なんです。
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わたしは個人的に音楽の力を信じている。
不眠症で眠れなかった幼少時代、眠れないことへの焦りを吹っ飛ばすようなウォークマンから流れる明る過ぎるサマーソング。
アライグマみたいなメイクをしながら、BGMとして爆音で流した今週のビルボードヒット50。
ナイトクラブで耳打ちで話し合う後ろで流れていた、鼓膜が破れんばかりのヒップホップ。
教員になってからは、生徒たちの好みに合わせて様々なジャンルの曲を聞いた。
そして涙が出そうになる瞬間がたまにおとずれる。
お昼の給食中に流れる音楽が、放課後の部活動が始まる前に校庭から聞こえて来た歌声が、授業で以前取り扱った曲だった時。
ラスト・クリスマスを歌った時も、昼休みに口ずさんでいる生徒がいた。
大抵はサビの最初だけなのだけれど、そういう時にふと思う。
「きっと彼らにとって、ラスト・クリスマスは『昨年のクリスマス』でも『最後のクリスマス』でもなくて、文字通り『ラスト・クリスマス』として身体に入っているのだろうな」と。
英語も身体に入ると、即座に日本語訳をしなくなる。
例えば、誰もGood morningと言われた時に、「おはようございます」と自分の中で変換しない。
当然日本語での意味は「おはようございます」なのだけれど、Good morningで十分身体に染み込んでいる。
この感覚を多く経験してほしくて、英語の授業では洋楽を扱うことが多いのだと(わたしは勝手にそう)思っている。
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教育現場を離れてしまった今年の12月は、去年ほどラスト・クリスマスを聞くことはないだろう。
でも今年も、間違いなくどこかの学校ではみんなでラスト・クリスマスを聞いて、子どもたちの中に日本語を超えた意味でのラスト・クリスマスが耳から脳へ、そして身体に染み込んで、最も自然な形で身についていくのだろう。
音楽が形を成さないのと同じで、言語も音として彼らの中に存在してくれたら、教員として冥利に尽きる。