「ただいま」という言葉が誰の元にも届かず、部屋に寂しく響くその言葉が、宙を彷徨うような生活を始めて8年が経つ。
「おかえり」と出迎えてくれる同居人はいまだにおらず、実家を出てから今日まで、同棲というものをしたことが無かった。それが良いのか悪いのか判断のしようは無いが、周りを見れば既婚者ばかりの年になると、「独身女の一人暮らし」を哀れむ者も世間には少なからず存在するのだろう。

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そんな生活を送る中で、必ず週に一度、決まった時間に電話が鳴る。実家の父からである。内容はだいたい想像がつくのだが、携帯の画面を確認し、すぐに応答ボタンを押す。
「もしもし?どうしたの?」
「どうしたの?じゃないよ〜。どう?元気にやってる?」
耳元で明るく響く声。おちゃらけたような話し方。還暦をとっくに過ぎていても、昔と変わらず父は父だ。
「んー、いつも言ってるけど普通だよ。仕事も楽しくやってるし。大丈夫だよ」
「それならよかった。お酒飲んでたら声聞きたくなって電話しちゃったよ〜」

いつも決まった話の流れではあるが、自分の思いをストレートに話す父の言葉を不快だと思ったことはない。むしろ、こんな年になっても結婚せず、実家にも帰らず、好きなように生きている娘を寛大に受け止めてくれる父には感謝しかない。

「今何してたの?仕事帰り?」
「さっきご飯作り終わって晩酌してるところ」
そう伝えると、父の声のトーンが少し上がり、嬉しそうな心の内が見えるような気がした。
「そうかそうか。そういえばさ〜」
と、最近の我が家の事情や周りで起きたことを、お酒片手に語り始める父。距離はあるにしても、きっと私とお酒を飲みながら話ができることを喜んでいるようだった。
それに対して私も楽しく相槌をうつ。話が進むにつれてお酒の減りも早くなり、グラスと氷が「カチン」と当たる音がこちらにも聞こえてくる。まるで実家で晩酌をしているかのような雰囲気だ。笑うとタレ目になる父の顔が容易に浮かんでくる。

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「あとさ、最近どうなの?彼氏とか……」
軽やかに話し続けていたかと思えば、一気にトーンを落とし、私からの返答に息をのむ父。
「あのねー、そんな簡単にできるわけないでしょ。娘の結婚はもう少し先になると思っといて」
あっさりかわす私。その言葉を聞いて安心したのか、更に父は言葉を続ける。
「そうか、よかった。まぁ、無理に変なのと結婚するよりはいいからな。彼氏できたり同棲する時は報告するように!」
すこし威張った態度で締めくくる。
そう、父は私にまだ嫁に行ってほしくないようなのだ。父の周りからも私の結婚を心配されているようだが、その辺には上手く言っているらしい。

大人になる前に実家を出たため、父とゆっくり晩酌したことはあまりないが、離れていても一緒に暮らしているかのような近況報告のやりとりに、安らぎを感じている。荒々しく過ぎる毎日の中で、1人で過ごす夜を何度も何度も寂しく思ったが、離れて暮らす家族のおかげで、私は今も1人で此処で頑張れている。