給食の時間に、そのクリスマスソングが流れるたびに先生は言うのだ。
「絶対にわかる訳ない」
そんなことあるかよ。
小学校低学年の当時、言葉で表せなかったもやもやを、冷たい牛乳と一緒に飲み下す。
冬に出る給食の牛乳はびっくりするほど冷たい。20年近くたった今でも、冬に流れるその曲を聞くたび、当時の気持ちを思い出す。

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毎日12時35分から、13時まで。小学校の時、給食の時間が楽しみだった。冬の期間を除いては。
給食の時間は、放送委員会が選曲した音楽が流れていた。冬の時期、あるクリスマスソングが流れると、担任の先生は決まって同じセリフを口にする。
「親を気遣い、外食でチキンライスを頼む気持ちが今の子どもにわかるだろうか?」
教室のスピーカーがそう歌うやいなや、先生は給食を食べる手を止めて、教室中に聞こえるような声で言うのだ。怒ったような、がっかりしたような声で、「絶対にわかる訳ない」と。
先生の言葉は、ヒーターが暖めた教室の温度をぐっと下げた。少なくとも私には、冬の日に窓を開けて換気するように、身を縮こまらせる力があった。のんきに給食をなんか食べていていいですね、となじられているような気持ちだった。

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というのも、当時家計をめぐって家庭内でピリピリとした空気が流れ、クリスマスを楽しむどころではなかったのだ。そのクリスマスソングと同じように、たまの外食では注意深く値段を吟味して料理を選んだ。
極端に安すぎても、高くてもいけない。普段の生活でも、家計を気にしている素振りを見せれば、いっそう両親の機嫌を損なってしまう。自分の言動の何が正しくて、何が正しくないのかわからなかった。

それでも、両親はクリスマスを楽しんでほしいと思っているようだった。子どもらしい天真爛漫さで、爆発しそうな家族の雰囲気を中和して欲しいと期待していたのかもしれない。浮かない顔をしては、かえって両親の気持ちをざらつかせてしまうことは容易に想像ができた。
偽りの無邪気さを装って、遠い雪国に住む人へプレゼントをねだる手紙を書いた。気を遣わせてしまったと親を傷つけず、それでいて値段の張らないプレゼントはなんだろうかと頭をひねった。

当然だが、先生がそんな私の個人的な事情を知るはずもない。もしかすると、先生自身の過去の体験がそういった言葉を導き出したのかもしれない。けれど、幼い私はただただ先生の言葉を攻撃として解釈してしまった。
今日はその曲が流れませんように、祈りながら給食を口に運んだ。
不完全かもしれない。幼く未熟かもしれない。それでも家計の苦しさを感じ取る力が小学生の自分にもあることを、先生の言葉に否定されるようで辛かった。悔しいとすら思った。

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当時、私たち家族が直面した家計の問題は、本当にありがたいことに一時的なものだった。けれども、そうはいかない子どもたちを、同じ子どもの立場から目にすることがあった。
給食をかき込むように食べ、何人前もの食事を時間いっぱいに食べていたあの子。サイズが合わなくなり、親指がのぞいても同じ上履きをはき続けていたあの子。誰にも気づかれず、自分だけで抱えて悩んでいた子は、想像も及ばないくらいきっとたくさんいたはずだ。

現在、7人に1人が該当するといわれる子どもの貧困。痛いほど歌詞が響き、意味を理解する子どもたちはきっと増えていく。大人になったのに、私には解決する術もなく、自分のことだけで精一杯だ。
それでも、せめてそのクリスマスソングを聞いたら、小学校の担任の先生とは違う言葉を口にしたい。今の子どもにわからないなんてことは、決してないと思うから。