「久しぶり!生きてる?」
長期休み中の私へのLINEは、この一言で始まることが多い。

もちろん私は毎日元気に生きているし、友人も私の生死を本当に心配しているというわけではない。ただ、TwitterもFacebookもやっていない私が、インスタの投稿やストーリーすらも全くあげないものだから、生存確認から始まる、というだけだ。
普段の生活が謎だと言われることや、近況報告で会うたびに新情報だらけだと驚かれることも、今や日常茶飯事になってしまっている。

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インスタを見ていると、繋がっている人たちの動向が手にとるようにわかる。
昨日は彼氏とデートだったんだな、あの子はライブに行ったんだ、最近このお店流行りだよな、今はそのアイドルにハマってるのか、などなどストーリーを流し見するだけで入ってくる個人の情報量はとてつもなく多い。その中で、沈黙を守り続けている私が、休みに入ると何をしているのかどころか、生きているのかすらも分からない、と言われてしまうのは当然のことである。

けれど、私はずっと不思議で仕方なかったのだ。
どうして自分の毎日を、SNSに投稿するのか。食べたものや行った場所、時には心の内を書いた文章まで、24時間で消えるストーリーに載せる、その意味はなんなのか。

ある朝、なんだかむしゃくしゃした気持ちで目が覚めた。洗顔料が泡立たなかっただけで、どうしようもなく苛立って、悲しくなって、鏡を見ると赤く腫れた目をした私がいた。
いつもの癖でスマホを手に取り、けれど見たい何かがあるわけでもなく、何となくでインスタを開く。光るストーリーの丸い印をタップすると、そこには楽しそうな友人の姿や美味しそうなご飯の写真などがたくさん映し出されていた。
SNSなんて、日々の明るいところばかりを見せる場所だ。それが分かりきっているから、羨ましいとか、自分と比べて暗い気持ちになるとか、そういうことはもうないのだけれど、ただただ眩しくて見ていられなくてそっとスマホを伏せようとした、その時だった。

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最後に表示されたストーリー。そこに移る一枚の写真は、私が高校の頃に親友と訪れた思い出のご飯屋さんだった。
あの頃の雰囲気とか、匂いとかざわめきとか、そういったものがその瞬間、ブワッと私を襲ったのだ。
懐かしいね、と彼女のDMに返信をした。するとすぐに、「また行こうね♡」と返事が返ってきた。

ああ、こういうことなのかもしれないな、その時初めて、SNSの意味を実感した気がしたのだ。
自己顕示欲のためとか、承認欲求がどうこうとか、簡単に繋がれる時代の弊害とか、SNSを巡るあれこれは言い出したらキリがない。けれど、そんな渦巻く色々なSNSの暗い面の中にある、こういう一瞬がSNSの良いところなんだな、と思ったのだ。
そのたった一つのやり取りだけで、たった一枚の写真で、意味もなく落ち込んでいた朝が、今日一日なんだかうまくいきそうだと思えるくらい、明るい朝に変わったから。
単純すぎるかもしれないけれど、その日をきっかけにSNSによって起こる一瞬のきらめきを信じられるように、というより、「信じたい」と、思えるようになったのだ。

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私たちは、誰もが人との繋がりなしには生きていけない。誰かと一緒にいたいと思うから、会って話をしたいと思うし、SNSで繋がりたいと思う。
けれど直接会っている時ですら、どうしたって分かり合えないと打ちのめされたり傷つけられたりして、でも一瞬の繋がったと思える瞬間を求めて、何度も何度も繋がろうとし続けるのではないだろうか。

もちろん、SNSに傷つけられている人は、数え切れないほどいるだろう。キラキラしたところばかりの世界だから、しかもスマホの画面という平面上の世界の中だからこそ、リアルと嘘が混同して、それは私たちの心をだんだん蝕んでいく。やっぱり無責任にSNSは良いものだ、とは言えないし、SNSがコミュニケーションの中心になるような今の時代に生まれてきたことを嘆きたくなる時はたくさんある。

けれど、その中にたった一度でも、SNSがあって良かった、と思えるような瞬間がこうやってあるのなら、今この時代に生きていることもそんなに悪いことじゃないのかもしれない。そう思わせてくれるなら、SNSを毛嫌いするのはやめてみよう、SNSとの向き合い方を考え直してみよう、と思う。