大学生になって実家を出てからというもの、一人で暮らした経験はほとんどない。弟だったりパートナーだったり、犬だったり、そばにはいつも大切な誰かがいた。
わたしは一人ではうまく生きていけない自信がある。誰もいない家に帰ってきて、自分のためだけに料理や掃除をして生活していけるだろうか。きっと色んなことを疎かに蔑ろにしてしまって自分のことすら大切にできないと思う。
けれど誰とでも暮らしていけるわけでもない。今になって実家に戻って生活できる気もしない。

◎          ◎

最近ようやく理解できたが、母親がこまめに家を掃除していたのも、わたしたち子どもが散らかす度に怒っていたのも、自分が住む家を守るためだったのだなと思う。

わたしは今、住んでいる家を守るのに必死だ。
掃除や整理整頓が好きなわけではないが、自分が快適に過ごしていくための最低限の清潔さや便利さを保ちたい。その最低限の基準は人それぞれで、わたしはおそらく細かい方だろうな、という気はしている。あらゆる物事に寛容で、ある意味で鈍感なパートナーは、苦労しながら一緒に暮らしていると思う。
まあ一緒に暮らす上でお互いに苦労することはあるわけで、その割合が完全に五分五分とはいかないけれど、そんなものはしょうがないことだよなという感じだ。わたしの苦労とパートナーの苦労が積み重なって、今のこの住みやすい家が出来上がったのだ。
家が好きすぎるあまり、友達の家に泊まるのも、なんなら実家に帰るのも億劫になる。どこにいても早く家に帰りたいな、と思ってしまうのである。そうなるともう良いのか悪いのか分からないが、ここにわたしの完璧な城が完成したというわけだ。

これは究極の精神安定剤だと思う。
わたしという人間がある程度ちゃんと生きていくためには友達や家族が必要だし、安心して住める家もその家を一緒に守ってくれる人も必要なのだ。必要なものが分かると要らないものも分かってくるので清々しい。

◎          ◎

わたしには一緒に暮らす人が必要だけど、一緒に暮らす人と恋人はイコールじゃないなと思う。友達だから、家族だから一緒に暮らすわけでもない。どんなに大切で大好きな人でも、一緒に暮らすというのは互いの関係性の話だけではなくて、それとはまた別次元の話であるように感じる。
パートナーとわたしの関係性は、一言ではうまく説明できない。生活のあらゆる面を支え合って、というかほとんど支えてもらって生きている。だから恋人ではなくて、パートナーであり一緒に暮らす人なのだ。

一緒に暮らす人は、一緒に生活をする人のことだ。同じ家に帰ってきて、同じようなご飯を食べて、同じ家で眠る人のことだ。
トイレットペーパーの残りが少なければ家を出たついでに買ってきて、家にいるときには誰の荷物でも自分のサインで荷物を受け取って、冬になって室温が下がるとホットカーペットをいつ出すか相談したりする。夜に犬が吠えると誰かが外にいるんじゃないかと不安になって戸締りはちゃんとしたのか、なんてことを確認し合ったりする。

そこには紛れもなく生活があって、それは大抵面倒くさくて煩わしいことの繰り返しなのだけれど、誰かが隣にいることで最も重要でかけがえのないもののようにも感じる瞬間がある。
それを時々は思い出して大事にするか……と噛み締めたりして、そうしてまた明日も洗濯をして掃除をして犬を撫でるのだろうなと思う。