成長というものには2種類あると思う。1つは体の成長。もう1つは心の成長である。
体の成長は大きくなったり出来る事が増えたり早くなったりと、目に見えての変化があるから分かりやすい。どこか足りないとかどこが多すぎるとか実際に数字になって表れてくれる。胸が小さいならこの体操を、体重が増えたならダイエットを――といった具合に解決策が明快だ。

◎          ◎

分かりにくいのは心の成長だ。そしてこれが死ぬまで一生続く成長である。体はある一定時期を過ぎたら衰えていくばかりで、その時間を遅くすることしか出来ない。でもいくら頑張っても落ちた視力を子供の頃見えていたレベルまで戻すのは不可能だし、歯だって抜けたらもう抜けっぱなしだ。
心の成長もゲームでよくあるレベルで可視化出来たらやる気も起きるのに、どうやったらレベルを上げられるかさえ分からない。近頃は心の成長としてメンタル強化の本やセミナーが常に人気のようだけれど、果たしてあれらが本当に成長の糧になっているかというと微妙である。

何故そんなことが言えるかと言えば、私がそれらでどっぷり勉強していた時期があるからだ。
確かに本もセミナーのどの講師の人も素晴らしいことを言っている。自分を信じていれば大丈夫とか逆に信じられなくてもそれが「あなたらしい」だ!などなど、どんな人でも明るくなれるような自分にフィットしたものが与えられる。次から次へと。
手を替え品を替えセミナーは来月も来てくれと言うし、本は続編がバンバン出る。夢を叶える象は一体何冊出ているんだ。もう全然追えてない。

◎          ◎

そんな私がメンタルを学び陶酔し心が変な方にいったあと、全部手放して素直に思う事は、成長する・したいという思いが人間を人間らしくさせる唯一なんだと言う事。

動物はもっとよくしようなんて思わない、もっと美味しく魚を頂こうと努力している熊なんて見たことない。植物に至っては種が落ちた先がアスファルトなら黙って枯れていく。もっといい土地に行こうなんて何千世代を超えても思わない。
だからどんな形であれ、人は成長したいと思えば人らしくなる。だから私は成長したかった。自己肯定しながら生きやすく生きたかった。色んな感情に振り回されず楽に生きるために成長したかった。ただそんなことは出来ないと悟ると同時に楽できなくて良かったとホッとした私もいる。

もし私が何も学ばず、ただ日々を浪費するように生きていたら――。人としての唯一、「成長」を若い時期から放棄していたら、恐らく物凄く冷たい女になっていただろう。
よく「世間は冷たい」というけれど極寒というわけじゃなく、ジワジワと芯から冷やして完全に冷えた時にはその冷えにも気が付かないという真綿で首を絞めるような冷たさなんだとこの頃自覚した。
その冷たさが体の動きを鈍らせて思考を凍らせて、「なんか不満な日常」をつくる。「疲れるから楽したい」「楽に仕事したい」のに、「私は頑張ってんのに皆サボってる」ような世界を見せる。共通の意識を持っている者同士で傷を舐め合い励まし合い、その裏でまた舐め合っていた人を糾弾し留飲を下げる。時折素敵な映画や物語に感化され生活に取り入れては続かず、「私はこんなもん」とレッテルを貼り続ける。そんな冷たい女になっていたと思う。

◎          ◎

どんなに本を読んでも偉い人の話を聞いたとしても、人は人との触れ合いでしか成長できないと気づいたのは最近で、それに気が付いてから成長して楽に生きることは不可能だと悟った。人と触れ合えば色んな感情を読み取り、逆に読まれるから、楽じゃないのだ。
だけど言葉に乗ってくるイメージとかその人の出す雰囲気から推測する人柄とかを感じれば、グイグイと世界が広がり、自分と世界の境界線を知れる。そして自分はまだまだ器が小さいことに気づく。広がるのを感じられるくらい、私の世界は小さかったと思い知らされる。
もっと成長していると思っていたけれど全然違った。まぁ、私は人と関わるのを出来るだけ避けていたからそりゃそうなんだけど。

人と触れ合うだけならお金はそんなにかからない。こうしてやっとこさ原点に立ち返る様に成長をまた始めた私。
現在の私と言えば、自分の決めた事と行動力が伴わないことに愕然としている。習慣とは恐ろしいもので、新しいことを組み込もうと思えば膨大なエネルギーと意識を集中しないといけない。
少しずつ少しずつ――。焦るのが得意な私に言い聞かせながら、今日もまた成長を続けていこうと思う。