ごめんなさい、と言う事は年を重ねるごとに減っていく。その代わりに「すみません」「申し訳ございません」という言葉に変わっていく。
「すみません」「申し訳ございません」は、社会に働きに出ればよく耳にするし口にする。特に接客業は幾度となくこの言葉を言う。だからだろうか、この言葉に私はあまり自己を投影して感じられないのだ。
もちろん使い方にもよるだろうが、会社の代表である私が口にする謝罪は私自身の謝罪というわけではないので、あまり申し訳なさを感じない。というか、それにまで心の底から申し訳なさを感じていたらしんどくてやってられなくなってしまう。ここを混同しないことが心を壊さないコツでもあると思う。
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大学卒業間近、私はある事務所に入社することがぼんやり決定していた。ぼんやり、と表現したのはその事務所から直接提示があったわけではなく、ましてや私が就活したわけでもなく、たまたまその事務所がやっている習い事のような軽いレッスンに1年ほど顔を出していて、これまたたまたまそこの社長に気に入られたのがきっかけで「卒業後は此処に来たらいい」と言ってもらっていただけだったから。
特に何か紙面で契約を結んだりは一切なかったけれど、社長は私に対して別のレッスンを無料で受けさせてくれたり、週末には習っていることを発揮できる仕事を回してくれたりした。大学生の私は「ラッキー」程度にその心遣いを甘受していた。
仕事は地方が多くて大学生の私にとってはなかなかキツイ移動距離だったが、それでも片道2時間以内だったり交通費を出してくれたりでかなり優遇されていたと思う。
しかし段々とそのレッスン、事務所の在り方に違和感を覚え、卒業間近の2月、私は社長にこの事務所には勤められないと告げた。社長自身、私の考えには薄々気が付いてはいたと思うが、突然そう告げてしまった。
色々な感情、様々な事情、社長の怒りも何もかも端折っていくが、私は「申し訳ありません」と謝っていた。だけど、それはどこか壁のある言葉で「私も悪いけど、アンタの対応の方がもっと悪いからね。だけど私が謝ってやってんだ」みたいな悪態をつきながら謝っていた。
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私は悪くないと本気で思っていた。だけど今書き出してみたら、私は相当恩知らずなことをしていた。
大学生の自分は色んな人に育てられていながら、それを棚に上げて自分でやっていると勘違いしていたんだなぁ。若いから育ててあげよう、経験させてあげようという気持ちを受け取れないくらい自意識過剰だったんだ。あぁ、若かったなぁ、私。
もしもあの時「ごめんなさい」と言えたら――。小さい子供が謝る様に「ごめんなさい」と言えていたら、あの人情に厚く案外傷つきやすい社長なら「仕方がない」と思ってくれたかもしれない。それを思うと、今更ながら申し訳なさとやりきれなさに胸が締め付けられる。
今更出向くことはしないけれど、遠くからその事務所の繁栄を祈ることは許してほしい。
あの時はごめんなさい、社長。