私は、「なんか〜」の人だ。
その口癖は、いつの間にか私の代名詞となってしまった。

伝えたいのに、伝えられないもどかしさを感じるようになったのは、いつからだろう。
どうせうまく話せないよ、こんなこと言ったって誰も興味ないよ、という自信のなさが根本にあるような気がする。
まとまらない言葉をいくつか並べては、最後は必ずこう締めた。
「なんか……だった」

自分は何が、何で好きなのか、いやなのか。なぜこう思っているのか。
自分とはどんなやつなのか、何がしたいのか。
私は、日の暮れた賑わう街中でぽつんと立ち尽くしていた。
進むべき方向が分からなかった。一人じゃないのに、独りになった。

◎          ◎

人生とは、感じたことがすべて、だという。  
そのころ、仕事でのストレスや不安から逃れるように、その不安な気持ちやときめきを感じた出来事などを、ノートに書くようになった。
こう感じてたんだね、こうしたいんだね、大丈夫だよ、と、自分をもう1人の自分が癒しているような心地の良い、生暖かい沼にどんどん埋まっていった。
心の中で渦巻いていたものがすぅーっと溶けていく……。
自分と対峙する、安心感に包まれた贅沢な時間。

完璧じゃない自分の、様々な感情に呑まれながら必死に足掻く姿。
そんな日々を過ごしていくなかで突き詰めた、自分なりの気づき。
小さな感動やときめき、幸せ。
書くことで、日々の全てがとても愛おしいものに感じられた。

そしてまた、人生そのものである感情や気づきの寿命は、蛍の光のように儚いものだと気づいた。
時折、いや、かなりの頻度で、あのとき何を思ったんだっけ?と大切なものが砂時計の砂のように音もなくこぼれ落ちている感覚があった。
ショックだった。何一つ無かったことにしたくない、と夢中になって書き留めた。

◎          ◎

「なんか」という言葉の裏にあった、自分だけの宝物の数々。
それらを言葉にすることはとても難しく、まるで長年眠っていた脆い土器を割れないように慎重に取り出し、割れたカケラを拾いながら、綺麗に土埃を落としていくような孤独な作業だった。
他の人からしたら、それは取るに足らないガラクタなのかもしれない。
でも、もしかしたら、ふっと隣で「私も好き」と言ってくれる誰かがいるかもしれない。

うざったく思われないかという心配と、あわよくばその“誰か”が現れるかもしれないという淡い期待を抱きながら、自分の中にしまっていた、ときめきを感じた音楽や言葉や気づきという宝物をインスタグラムのストーリーに少しずつ載せ始めた。  

そんなある日、ずっと連絡をとっていなかった友人から突然連絡が来た。
日々悩んでいることを打ち明ける彼女に、日記に書いた過去の自分と重ねた。
どのような言葉だったら彼女を安心させることができて、背中を押せるのだろう。
考える時間は、まるで言葉という贈り物を準備しているようだった。 
「ゆみちゃんの言葉、凄い心に刺さる。ありがとう」
インスタのストーリーもスクショしたもん、と久しぶりに再会した彼女がどこか吹っ切れたような笑顔で笑った。

◎          ◎

日々の中で感じるネガティブな感情までも、言葉にすれば人の支えになることがあるということ。
共有することで私は独りではなかったのだと思えたこと。
思いがけない言葉の贈り物と彼女の笑顔のおかげで、
自信と新たな気づきが胸の中で芽生えた……。

人は皆孤独なのだ。
自分を深めることで、自分を迷子にしない。
言葉にすることで、繋がりを持つ。 
自分を深めるという孤独な作業は、人と繋がるための一歩なのだ。

「私はここにいるよ。大丈夫」
孤独な世界のなかで、手を振って声をあげ続けたい。 
自分にも周りの人にも、言葉という贈り物をすることで安心感や元気を与えていきたい。
ノートに文章を書くようになってから一年半。
ポジティブなこと、ネガティブなこと、あらゆる感情を人生の糧にする強さを持ち、少しずつ完璧ではない自分を理解し、愛せるようになっていた。