社会人になって、8ヶ月が経った。ようやく仕事や環境にも慣れてきて、少し遠出したくなった私は、11月の末に一人旅に出た。
目的地は三重県鈴鹿市にある「椿大神社」。何年も前から、ずっと行きたいと思っていたところだった。
ネットの情報によると、「導き」がなければ行くことができないらしい。だからきっと今回の旅は何かに導かれているのかもしれない、と思いながら、11月29日の午前、近鉄難波駅発の特急「ひのとり」に乗り込んだ。

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椿大神社は、日本神話に登場する猿田彦大神という神様を祀る神社の総本宮といわれている。そこには猿田彦の御陵が残され、そして宮司は猿田彦の子孫が脈々と引き継いでいる、というとてつもない現実味のない世界を背景に抱いている。

四日市駅から1時間ほどバスに揺られ、終点で降りる乗客は私ひとりだった。
バスを降りて帰りのバスを確認していると、さっきまで運転していた運転手に、「2時間おきにしかバス来ないから、気をつけてね」と声をかけられた。
雨の降る椿大神社は薄暗く、そして静かだった。

猿田彦大神は、導きの神として信仰されている。だからここへ来れば、人生に迷っている人ならば、今後の人生をどう進めていけばいいのか、わかるようになるらしい。まさしく猿田彦の導きで、道がわかるようになるそう。
去年から精神面から体調を崩して夢を諦め、とっとと就職してしまった私は、正直なところ人生の道を見失っていた。
それはまるで、難破して流れ着いたのが、常夏の楽園だったような感じ。居心地はいいし、満たされているし、なんの不自由もないけれど、心の奥にいる私が「漕ぎ出したい」と叫んでいる。しかし肉体の私は、依然として休息を求めていた。

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「高山土公神稜」と書かれた石碑の奥に、こんもりと丸く盛り上がっているところがあった。2回その前を通りかかって、やっとそれが猿田彦の御陵であることに気がついた。その瞬間、神話の物語だったはずの存在が、一気に現実味を帯びた。
日本神話の物語に書かれていることの多くは神格化し過剰に盛られているはずだが、ある程度の出来事や人物のほとんどが、おそらく現実に存在していたという事実。2000年の時とそれらを信仰し続けた日本人の意志が、この境内の全てを形成している。鳥肌が立って、目頭が熱くなった。

何かに駆り立てられるように旅に出て、残されてきた古いものを自分の目で見て感じる。高校生の頃からずっと続けてきたけれど、この国にいる八百万の神様の1人が、私にそうさせているのかもしれない。
それが誰なのか、そして何のためなのかはわからない。それを続けることで、私の人生にどんな影響があるのかもわからないけれど、こうして悠久の歴史の中に身を置いて、とてつもないエネルギーを感じられる習慣は、今後も続けていきたいと思った。

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毎日同じように続いていく日々の中で、常々思うことがある。
私の中には、2人の私がいる。
1人は、日常を日常として楽しむことのできる、平凡な私。彼女は毎日のランチや、仕事を通じて出会う様々な人との何気ない日常を、普通の幸せとして感じることができる。
もう1人は、歴史や音楽、美術を通じて、人間の超人的なエネルギーを感じ取ることができる私。彼女は繊細で神経質で、自分のその感情をなかなか人と共有できないけれど、何かとてつもない夢をはらんでいる。

2023年、私はそんな自分自身を、両方愛して育てていきたい。日常を生きる私も大切だし、芸術を愛する私も大切。どちらもが安定して心を満たしていられれば、私はこの先とてつもない幸せをつかめるような気がしてならない。
今年、夢は1つ手放してしまったけれど、きっとそれは悲しい別れではない。これからの人生をより素敵なものにするための、何かの導きだったはずだ。
だって今、私はこんなにも満たされているのだから。