2023年は、私を取り戻す年にしたい。
そんな言い方、少し詩的すぎるだろうか。抽象的すぎるだろうか。
でも他に言い方が見つからない。
2023年は、私が生きていく過程でどこかに落としていった自身の欠片を拾い集めなくてはならない。
そうでないと、これから先を生きていけない。
◎ ◎
私は子供の頃、よく「出来損ない」と言われた。「失敗作」と言われたこともある。
酷い言葉ではあるが、確かに私は特別優秀でもなく、特別美しくなく、特別活発というわけでもなかった。だからその言葉をただ鵜呑みにするしかできず、私は私を「出来損ない」の「失敗作」だと思っていた。自分には褒められたりする価値がない人間だと信じて疑わなかった。
私は自己肯定感というものを持ち得なかった。
けれど、心のどこかで誰かに褒められたかったのかもしれない
小学生くらいから、「〇〇作文コンクール小学生の部」や「子供写真コンテスト」といったものに応募して、賞を受賞することがあった。
欲しかった賞賛が、表彰状やトロフィーという形になるのは嬉しかった。
でもなぜか満たされなかった。
「みかんちゃんは凄いね」
誰かが言葉で褒めてくれることもあったけれど、渡される肯定を自分のものとは思えず、抱えた肯定は確かに私宛なのに、人様の家の猫を預かっているような居心地の悪さ、私が持つべきではないものを持たされている盗人気分でいた。
自己肯定感を正しく受け取る機能を人生のどこかで落っことして、どこにあるかわからないからだ。
◎ ◎
「みかんちゃんは、凄いね。エッセイ書いたり人に流されないもん」
2022年、この年齢になって出来た友達はストレートにそう私を褒めた。
褒められたならば全力否定!反射的に、「そんなことない。私は全然凄くない。ただの出来損ないの失敗作のダメ人間だ」。
そう「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すみたいに答えていた。
大体の人は私の否定する剣幕にビビって引くのに、その友達は引かなかった。それどころか怒った。
「凄いんだよ、だからそんなこと言わないで」
「凄くない。エッセイを書いてはいるけれど、それだけで食っていけてるわけじゃないもん」
「でもちゃんと自分の世界を持ってて凄いんだよ」
「私はただ変わってるだけ。おかしいだけ。変なだけ」
「それ以上自分のこと悪く言わないで」
「凄くない、凄くない、凄いって言わないで。私は出来損ないなんだから」
「嫌だ。本当に凄いと思ってるんだから言い続ける」
友達は「凄い」と、凄くない私に言い続けた。次第に「凄い」という言葉が怖くなって冷や汗が出るようになった。けれど友達は悲しい顔をしながら「凄いよ」と言い続けてきた。
◎ ◎
……さて。喉元過ぎれば暑さを忘れるという言葉があるように、鳥肌を誘う「凄い」という言葉を受け入れたい自分も顔を出してきた。
称賛を拒んで打ち返すだけの私ではなく、その称賛を慈しむことのできる私になれたのならば、どんな世界が見えるのだろう。
そしてなにより、悲しい顔をさせ続けている友達の表情を晴れさせることができるのだろうか。
「凄いね」に素直に「ありがとう」と言える私になりたい、
その為には頭にこびりついた、「自分」=「出来損ない」の方程式を少しずつ解して解して壊していかなくてはならない。
私の自己肯定感センサーは、どこに落ちているんだろう。
褒められたかったけれど褒められなかった私が下を向いて歩いていた通学路、唇を噛んでた通学バスの中、押し潰されていた通学電車。
2023年は探偵気分で探さなくてはならない。
探し出して心に装着して、褒められなかったあの日の私に、かけてほしかった言葉をこれでもかというほど自給自足でかけるのだ。そして友達の称賛に対して激しく首を振って否定するのではなく、「ありがう」と言える人になる。
それが私の2023年の目標だ。