私が「あの時はごめんなさい」のテーマを読んで真っ先に思い出したことがある。それは小学生の時に通っていた公文で、私が問題児だったことだ。

私は小学生の時に通っていた公文で、先生達に迷惑をかけてばかりいた。公文の教材で分からないところを先生に聞いて、先生が答えをはっきり教えてくれないと、公文のプリントに「ばか先生」とか書いたり、怒ったり泣いたりした。分からなくてイライラするから椅子に座っている先生の膝の上に乗ったりしたこともある。

◎          ◎

当時の私を振り返ると、なんであんなことをしたのだろうと思う。と同時に子供の未熟さに恐ろしさを感じる。
私ははっきり言って子供が苦手だ。過去の自分のような子供と今接することになったら全力で逃げると思う。それほど嫌な子供で、先生達の仕事のストレスになっていた私のことを見捨てずに勉強を教えてくれた先生達はすごいと思う。かっこいい大人が世界には溢れているのだなと思う。

私は自分の過ちに気づいて恥ずかしいけれど、気づけてよかったなと思う。
これくらいの成長は人間として当たり前かもしれないが、それでも私は少しでも大人になれたことを嬉しく思う。公文の先生達にごめんなさいと思えている私は、やはり成長できたと言えるだろう。
迷惑をかけていたあの当時、私は自分がまずいことをしていると気づけていなかった。もしかしたら、今も気づいていないだけで、誰かに対してひどいことをしているのかもしれない。もしそうだとしたら早く気づけるようになりたい。

◎          ◎

先生達はなぜ私の迷惑行為を我慢して辛抱強く教えてくれたのだろう。これも仕事だと思って割り切ってくれたのかもしれない。
私はそれができるだろうか。できるような気もするし、できないような気もする。また、先生達は、今は仕方ない、いずれ大人になるだろうと思ってくれたのかもしれない。
私は基本的に子供を避けて暮らしているが、未熟な子供を寛大な気持ちで見守れる人になりたいと思う。子供だからといってなんでも許すのもよくないとは思うが。

迷惑をかけていた私が今できることを考えてみる。
それは人間として成熟することだ。そして社会に貢献すること。
人間として成熟するために自分のことをもっとよく知って自分の機嫌を自分でとって、周りに迷惑をかけないようにしたい。また本をたくさん読み、相手の立場を想像してたくさんの人の気持ちを理解できる人になりたい。そうなれたら私はもっと周りを笑顔にできる気がする。
社会に貢献するためには、仕事において与えられた役割をきちんとこなしたいと思う。それができたら小さな影響かもしれないが、社会をよりよくするお手伝いがほんの少しできると思う。

◎          ◎

こんな風に考えることができたのは、公文の先生達のお陰だ。公文の先生達が私のことを見捨てずにいてくれたから、私は自分が悪かったことを反省でき、そして自分ができることを考えることができた。
公文の先生達、あの時はごめんなさい。そしてありがとう。
これから私は先生達に胸を張って再び会えるような大人を目指していきたいです。