多様性を受け入れる社会が少し怖い

最近、「かがみよかがみ」のエッセイを読んでいて、何だか少し怖くなる事がある。それは、「多様性」を受け入れる社会が到来すること。
だってさ、18~29歳の女性という括りがあるここですら、こんなにも私の知らない「アイデンティティ」にたくさん出会うんだもの。

「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」と言う政治家がいて、その発言にウケる人もいるという現状はさすがに極端な話だけれども。
かといって私も、全人類の全てを包み込む心の準備が整ったかと言われると、そんな自信は全く無い。みなさんはもう、どんと来い状態ですか……?

攻撃的な人も受け入れなければいけないのだろうか

先に白状しておく。「コイツめんどくせェな」と思われても仕方がないのだけれど、例えばの話ね。

私は、SNSで誰かを傷つける様な攻撃的な言葉を使う人を見ると、スルーできない。「なんでこんな言い方するんだろう」と、憤り、怒ることもある。それは内容に関する賛否ではなく、「言葉遣い」に関する部分を言っている。
で、(やめときゃいいのに)私はその人プロフィール欄を見る。そしてそこに書かれた「アイデンティティ」の名前を見た時に、思考が止まってしまうのだ。「あぁ、こういう人が言っているのか……」と。

自分の「アイデンティティ」を看板に掲げている人が、他の人の発した言葉を平気で切り刻んでいるのを見た時、私はたまらなく悲しくなる。そしてその後に残るのは「多様性を受け入れるの、私無理かも」という、虚しい気持ちだけ。

私は、攻撃的な「言葉遣い」を、スルーすることができない。でも、攻撃的な言葉遣いをするその「人」が持つ多様な背景を、私は知りたいし、受け入れたいと思っている。それなのに。

どうして自分の「アイデンティティ」を看板に掲げる人が、他人の看板を壊そうとするの?あなたはあなたにとって特別なんだろうけど、それはあなたが今ボロボロにした看板を掲げている人達も同じだよ……??
多様性を受け入れるってことは、こういう人も受け入れなきゃいけないってことなの……?私は無力だ。

行動の原点が「怒り」でもいい

そんな事を考えながら、もんもんとしていた先日。旦那から勧められて、オードリー・タンのインタビュー本、『自由への手紙』を読んだ。

オードリー・タンは台湾の最年少デジタル担当政務委員(大臣)で、いわゆる天才と呼ばれる人物であり、トランスジェンダーであることを公表している。彼女は昨年、薬局などのマスク在庫がリアルタイムで確認できるアプリ「マスクマップ」を導入したことなどで、全世界により広く知られた。

私は本書を読むことによって、もんもんとしていた気持ちに、光を当ててもらえたような気分になった。そしてそれをここ、「かがみよかがみ」で文章を読み、書いているみなさんに、シェアしたくなった。

オードリー・タンは本書で、SNSやハッシュタグの有用性を語っている。

『最初の動機は怒りであってもいい。(中略)そこから、つながりと喜びを生み出せば、変化が生まれます。それが実を結べば、次の運動が起こるようになります』p.33 

私は彼女に、怒りを感じるのは正常なことなのだと気付かされた。その攻撃的な言葉を発した人の怒りも、「言葉遣い」に対して私が抱く怒りも。
そしてそんな怒りにはむしろ、これまで気付かれなかった事柄を強く浮き立たせる「蛍光ペン」の様な効果があると、オードリー・タンは言う。

では、その「蛍光ペン」で浮き立たせられた事柄を、私たちはどうすれば良いのか。怒りを怒りのままに呟いても、私の様に無力感を抱える人を生むだけだ。問題はただ声に出すだけではなく、広げなければならない。そこで、SNSやハッシュタグが役に立つ訳だ。

自分のため、社会のために文章を読み、そして書き続ける

さて、自分に立ち返る。私はこうして「かがみよかがみ」で文章を書いている。これはまず1番に、自分自身のためだ。しかし同時に、読んでくれる人に広げたいものがあるから、言葉はじっくりと選んでいる。

文章を書くと、私の「アイデンティティ」が抽出される。そしてタイトルを考える際には、自分の広げたいものが伝わる言葉を、的確に掬い上げるように留意する。しかし、そのタイトルがそのまま配信されるとは限らない。

「かがみよかがみ」においてはタイトルを決める際、編集の方が寄り添ってくれる。私はフィードバックの後に、タイトルに込めたい思いを改めて編集の方に伝えた事もあるが、最終的な調整をするのはサイト側だ。それは、エッセイのタイトルが、ハッシュタグの様な役割を担っているからではないだろうか。

「私は変わらない、社会を変える」というコピーを掲げる、「かがみよかがみ」。ここではそれぞれの筆者が、「私は変わらない」というスタンスで文章を書く。
そして、最後の「社会を変える」という部分で、編集の方がエッセイにリボンをかけてくれる。オードリー・タンが言う、「つながりと喜び」を生むために。そして、エッセイを書いた人、読んだ人が、不平等から自由になるために。

私は有名人ではないので「いくらが書いてるなら読んでやるか」みたいなファンはいない(いたらDM下さい)。だからおそらく、この文章をここまで読んでくれている方は、タイトルに目が止まり、それに指を当ててタップして、スワイプしてここまでたどり着いたのだと思う(長文ですいません……)。

書くこと、読んでもらうこと。自分のため、社会のため。このサイトに書き手として、読み手として触れていると色んな事を考える。
最後に、私の文章を読んで下さったあなた向けて、オードリー・タンのこの言葉を贈りたい。

『ジェンダーも文化も、インクルージョン。境目というものは、実はどこにも存在しないのです』p.85 

この文章は、私から抽出された「アイデンティティ」が凝縮されている。そして、あなたと近いか遠いかはわからないけれど、地続きの場所に私は立っている。

私達はこうして文章を書いたり読んだりして、「多様性」を受け入れる準備をしている。