よく友人たちに言われる言葉がある。
「自分の考えていることを書けるってすごいね」
その言葉にいつも私は「みんな日本語を知ってるわけだし、頭で考え事してたら自然と日本語になってない?それを書くだけじゃないの?」と聞く。すると皆「そうなんだけど、そうじゃない」と言う。

例えば絵を描くことや音楽を作り出すことと比べれば、書くという行為は誰にでも出来る表現の手段だと思う。絵や音楽は日常生活ではあまり使わない分野の事だし、それが作り出せるというのは私には到底到達できない羨ましすぎる表現方法だ。
だけど、文章を書くという事はどうだろう。みんな日常でもSNSやらなんやらで書く機会は存分にあるし、してると思う。だけども友人たちは皆「出来ない」と言う。出来てるのに出来てないとはどういうことだろうか。

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文章を書くことは伝える事である、と私は思っている。伝える相手は他人だったり自分だったり、誰にでもできる表現方法の1つだ。障害があっても書くことは様々な方法で可能だ。絵や音楽に比べればそんなに高くないハードルだと思う。
私の場合、パソコンで執筆するのだけれど、キーボードに手を置き、何を書くかさえ決まっていればそれについての考えていることがツラツラと頭に浮かんで、それを打っている。自分の考えていることが何なのか、頭でまとめる前に文章にしているような気がする。

頭で考えていたら、どうしても集中力が離散してしまう。だから悩み事がある時や、自分がどうしようもない、当てようのない感情をもった時もこうして文章にしていく。すると不思議と対話をしている気分になってきて段々と落ち着き、次の一手はどうしようかと冷静に考えられるようになる。
ただし、持っている感情は消えるわけではなく溜飲が下がるだけなので、晴れ晴れと解決することは少ない。ただ「あぁ……なるほどね」くらいの肩の力は抜ける。

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最初の友人たちの言葉に戻るが、彼女らの言葉を聞いて私はつくづく思うことがある。彼女らは書くという行為が出来ないのではなくて、自分の考えていることを言語化出来ないんだと思う。
なんか嫌な感じ、だるい、ストレスという簡単な言葉、ムカつく――そういった曖昧な言葉で自分を表現してしまうことに慣れている。曖昧な言葉にしておけば本当の問題・課題については目を瞑っていられる。
これは意識的にしているのではなく、無意識にしている。だから質が悪くて、彼女らはもっと向上したいという意思があるのになかなか気が付けないのだ。
だけど、他者と話すときは必ず言語化しなければ伝わらない。だから言葉にして思いを紡いでくれて、それを私が聞いて――を繰り返していたら、いつの間にか彼女たちは自分で解決策を言い出して勝手に納得して勝手にスッキリしている。
スッキリした彼女らは「ありがとう」と満面の笑みでお礼をいつも言ってくれるが、いや私、マジで何も言ってませんが?みたいなことが多々ある。言語化すると意識さえすれば解決策や自分の納得する答えは自分で出せる、と彼女らを見ていていつも思う。

どんな小さな問題も、自分が納得しなければ大きな問題に見える。反対に大きな問題すぎて自分じゃ見えないものもこの世にあるから、日々自分の思いを言語化し、何をどう感じているのかをちゃんと知っておきたい。
だからこそ、何もできない私は誰でもできる文章で書いていくしかないのである。