y=ax+b

自分は何者か、全く分からない。自分がyだとすると、傾き(a)は軸になる活動であるだろうし、切片(b)は素質的なものなのだろうか。
そんな難しい問いに比べて、数字は明快だ。学生時代は勉強をさぼっていたから、得意とは口が裂けても言えないが、とにかく数学が好きだった。1は緑、2は赤、色なんか付けたりして、年齢が素数になるとわくわくした。なんといっても、1は1であり続けてくれるという明確さが私を夢中にさせた。

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思春期が始まるころ、人生に分かりやすい問いや、すぐに出る答えがないことを知った。理由不明瞭ないじめが学校にはあったし、それで同級生が亡くなったこともあった。家でも、お姉ちゃんが反抗する訳が分からなかったし、自分がどう動いても両親仲は上手くいくことはなかった。
悩んで悩んで悩んで、そして私の糸は切れた。自分で答えを出すことをやめたのだ。
自分の中の問いを考えないことは簡単だった。隣の人に合わせればいいから思考もいらない。責任感もいらない。失敗しても後悔することもない。へらへら笑っていれば、毎日が過ぎていく。それは、感情が奥深いところへ眠ってしまうことであり、辛いという感情も鈍麻していった。
中学生の姉と二人の生活は、不足しているものだらけのはずだった。でも、児童相談所の人に「困っていることはない?」と聞かれたとき、質問の意味が全く分からなかった。

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大学のある日、文章に出会った。課題本以外の読書はしなかった私だが、尊敬している人に勧められたら流石に読もうと思い、手に取った。太宰治の「人間失格」だ。
「まさに私だ」
この本をみて、そう思う人は多いらしい。漏れなく、私もそう思った。そして同時に、読み進めながら、自分の心の中をのぞいているような感覚に陥った。それは、数学のXを解いているときと同じ感覚だった。数学の式みたいに最短ルートもない。だからすぐには解けない。でも、ぐるぐるぐるぐると、少しずつ近づいて行っている感触がある。
私が本当に好きなものは?大好きな人は?いいたいことは?やりたいことは?

その頃から、日記を書き始めた。SNSの文章も丁寧に書くようにした。表面の感情をむき出すのではない。ゆっくり、丁寧に、自分に正直になって内側、より内側の考えを探し求めていくような作業だ。
自分の心の中を言葉にすることは難しい。そして、時々しんどい。でも、その作業をすることによって、何百倍も素直に、楽に生きることができる。自分の汚い部分も見えてくるから、直そうと努力することができる。

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数学の式を解くのと同じように、私は今も日記を書いている。時々考えが溜まったときには、少し長い文章にも挑戦するようになった。半月坊主のときもあれば、半年坊主のときもある。
まだまだ太宰治のような美しい式は書くことができていない。それでも、たまにでもやることで、自分の傾きが大きくなったり、切片は何かという問いに少しだけ近づくことができていたりする気がする。
yは大きくなれているでしょうか。