自分を表すためのツールが本来の自分を表しているのか、それとも都合の良い「偽り」の自分がつらつらと書き連ねているのか。
私は文章を書く、という行為に対して、そんなふうに考えてしまった。
私は、文章を書くという行為は好きである。大学で自分が専攻していることのレポートであればいくらでも書きたいと思えるし、ふと「書きたい欲」のようなものに襲われて、文章の構成も何も気にすることなくブログのようなものを書き殴ることもある。
文章を書くことがなぜ好きかというと、誰に何を言われることもなく自分を表現出来るからである。
ただ、ある時「これは本当に自分が書いたのか、『偽り』の都合のいい自分が都合よく『なりきって』書いてしまっているのではないか」と思うことがあった。
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就職活動の際に企業に提出するエントリーシートを書いている時である。ありのままの自分で書いているはずなのに、どうもそのような気分になれない。言いようもないモヤモヤに包まれながら書き進める。
しかし、そんな文章を読んでも納得出来るはずもなく、思考の渦のようなものに飲み込まれていく、そのような感覚に陥った。
自分がどれだけその企業に対しての想いがあるか、就職活動で大切にしていることはどんなことか、いつものように自分らしく書けばきっとモヤモヤも消えるはずだがなぜかうまくいかない。
私は、自分らしく、ということよりも、自分をその企業が求めるキャラクターのようなものになりきって都合良く書いてしまっているのではないかと思うようになった。
別に良く思われたいと思っているわけではないし、取り繕っていない自分を表現し、それを評価してもらいたいと思っている。そう思っているはずなのに、エントリーシートを書く「人格」はそうではないようだった。
気がつけば「合格したエントリーシート」や「エントリーシートの型」のような言葉がスマホの検索欄にはずらりと並び、自分の語彙では表現しきれていないと思い、言い換え表現をまた検索する。
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良く思われたい、その感情は就活生なら誰しも抱える想いであると思うし、何も就活生だけが抱えるようなものでもないと思う。しかし、私は、「偽り」の自分が書いたエントリーシートを読み直すのが嫌で嫌で仕方がなかった。
文章を書く、という自己表現の仕方が好きだからこそ、「模範」が存在することにも、そしてその模範を求めてしまう自分にも嫌悪感を抱いた。
何も考えずに思いつくままに、「書きたい欲」に襲われている時のようにエントリーシートを書いたことがあった。もちろんエントリーシートが通過して欲しいという気持ちはあったが、これが通過しなくても仕方がない、と思っている自分もいた。
模範でも偽りでもなく、いつものように書いた文章だったからそう思うことが出来たのだろう。
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文章というものは誰しもが自分を表現することができるツールである。その文章に疑念や嫌悪感を抱えることがあっても、その文章を書いたのは「偽り」の自分ではなく、全部「本当の」自分ではないか、とも思う。良く思われたい、賢そうに見られたい、そんな欲深い自分が書いたものも全部ひっくるめて自分らしい、であるとも言える。もちろん、「書き殴った」ものが自分らしい文章であるとも思うが。
私の中で「文章を書く」ということは、何も考えずに書き殴る、ただそれだけなのである。
そして、今日も企業の採用ページを開いて「想い」をぶつける。