私は、高校三年生から日記を書き続けている。
始めたきっかけは、年始の気合いのようなものだった。今年は、日記を書くぞ!そんな軽い気持ちだ。心のどこかで、そんなに長くは続かないと思ってもいた。
しかし、こうして三年以上続いている。なぜだろうか。

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私は、人の目を気にする。人に良く思われようと振る舞う。優等生を演じてきた。その結果、周りは私を良い子と判断するようになった。そして、その期待に応えようともっと自分を偽ってきた。

そんな偽りは自分を苦しめる。自分の気持ちに向き合うことなんてできなかった。考えを持つことができなかった。自分のことが分からない自分が嫌だった。
だから私しか見ない日記に、今日の出来事や気持ちをありのままに書くことは本当の自分を表現しているようで心地よかった。本当の居場所を見つけた!!と達成感のようなものを感じた。

そして、書いたものをたまに見返す。
父親にイラついた日に書いた日記には、「同じ墓に入らない」と書いてあった。思わず笑ってしまった。当時の、私なりの最大限の嫌味だったんだろうなあ、と懐かしく感じた。私にしてはなかなか面白い表現だなと謎に自分を賞賛したりもした(ごめんね、パパ。そんなこと本心じゃないよ(笑)。これからもパパの可愛い娘でいるよ、いさせてねwww)。

韓国語の勉強を始めた頃の日記には、「パッチムが分からなすぎる、なんやあれ、もはや日本語まで分からなくなってきた」と壁にぶち当たった様子が書かれていた。「大丈夫だよ。数か月後には一人で韓国旅行に行ってるから、そのまま勉強続けてみて」と今の私は当時の私に心の声をかけ微笑んだ。

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日記に自分を表現するようになって、人がどう思うのかも大切だが、私がどう思うのかに向き合う時間の大切さに気づいた。今では、何があってもとりあえず「自分はどう思う?」と心に尋ねるようにしている。

そうすることで、何をするにもこの行動にはどんな意味があって、私は何を求めているのか考えることができるようになった。それゆえ、他人の考えに振り回されることも少なくなり、活動的になった。

私は「今の私」が大好きだ。
否定されることが怖い。今もその当時の気持ちは分かる。でも今の私は考える。人間はみな違う考えを持っている。というか、全く同じ考えを持つことは、考えていないことになる。その異なる考えを、真っ向から否定するのではなく「あなたはそうなのね、私はこういう考えだよ」というふうに、相手を受容し自分を表現する、この流れを私は大事にしたいものだと気づいた。

そして、書くことで私の価値観が何かを知るようになった。面白いことに、書き始めた当初は「自由」という考え方がすべての根底にあった。だが、今は「成長」という考えが私の中で大きな部分を占めている。

書くことによって、自分なりの考えを持つようになり、考えることで新たな考えを知ることになる。それに気づかせてくれた日記という存在。ありがとう。

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そして、その考えを誰かに共有したいと思うようになり、話すことも楽しく感じるようになった。
先ほども触れたが、その結果ひとり韓国旅行にトライした。日本語は通じない。韓国語か英語、もしくはジェスチャーのみ。そこで気づいた。
たとえ、言語が少ししか分からなくても伝えようとする意思、理解しようとする意思が互いにあればコミュニケーションが可能であることを。

書くことによって、話すことの楽しさに気づき、言語を学ぶことの楽しさにも気づいた。海外旅行をし、日常会話ができたことは満足だ。

だが、もっと深い話をしてみたいとも思う自分がいた。今、私は語学に力を入れ始めた。こんなに主体的に勉強している自分がいることに驚きを隠せない。学ぶことが楽しい。
私は、これからも日記に自分を表現し、そこから考えを得ることで自分を成長させていく。
そして、いつか何かしらの形で世界中の人と人をつなげたい。