最近、自分の中で「慣れ」を実感すると「寂しい」と感じるようになった。生きていくうえで避けられない現象なのだろうが、あの時感じた感動はもう私の中に生じない。
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高校2年生の冬、私が通っていた宮崎のとある高校は修学旅行に繰り出した。
行先は長野県のスキー場と東京、4泊5日。田舎者の私にとっては、何事も初めてのワクワクドキドキの修学旅行だった。
長野県のスキー場は、一面が真っ白な雪に覆われていた。半分は人工雪だったらしいが、スキー2日目は降雪に見舞われて本物の雪に大興奮した。
日本の日向と謳う宮崎は雪なんてほぼ無縁。スキーそっちのけで雪だるまを作り、雪合戦に大はしゃぎした。
東京観光では、すべてが初めて尽くしだった。横浜からスタートしたが、みなとみらいに行って、バスの中からフジテレビの球体を見て、レインボーブリッジを見て、東京タワーを見て(上って)、スカイツリーを見て、ディズニーランドに行って、はとバスに乗って、浅草で食べ歩きをした。
ぜんぶテレビの中でしか見たことのない世界。地元にはない煌びやかで斬新な街並みと、目が眩むほどの人の多さに、ずっと心が騒いでいた。日本の中心は想像よりも遥かに壮大な都市だった。
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それから約1年の月日を経て、私はそんな大都会東京の大学に進学した。
大学の場所は渋谷。毎日山手線に乗って、六本木ヒルズを見上げながらキャンパスに向かう。それが私の日常になった。
先日、一緒に宮崎から上京した友だちと遊ぶことになって、どこで遊ぼうかと話しているときだった。二人とも特に行きたいところもなく、結局自宅でだらだら過ごすことになった。
東京に行きたいところがない、なんて数年前の私が知ったら信じられない心境だろう。今ではもう東京タワーもスカイツリーも、PARCOもルミネも行き飽きてしまった。行けば楽しいのだろうが、いつでも行ける距離にある場所にわざわざ今行こうという気になれない。そうなってしまったのだ。
極めつけは同じその友だちと浅草に行ったときだ。
目的は浅草寺でも雷門でもなく、おしゃれなカフェ。そのあとは少しだけ散策して、小腹が空いたからとマックに寄った。浅草まで行って、浅草寺にも行かず、何も買わず、カフェとマックだけ行って帰宅。行かなかったことに対する惜しみや後悔はなかったが、惜しんでいない自分に帰りの電車で例えようのない寂しさを感じた。
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冬になると、マフラーをぐるぐる巻きにして、何事にも興奮しながら東京を回った高校の修学旅行を思い出す。
あのとき感動した景色は今も変わらずそこにあるのに、私が慣れてしまったから、今では当たり前の光景になってしまった。無邪気さや素直さ、純粋さが失われていくようで寂しい。東京の冬はそうやって私を切なくさせる。
私はあとどれくらい感動する出来事や物事に出会えるだろうか。
一つだけわかっていることは、その感動が待っているところに自分から足を運ばないと出会えないということ。まだ行ったことない県や国、地球を飛び出してみてもいいかもしれない。
たくさんの「初めて」に触れて、私はまだまだ興奮と感動に苛まれる人生でありたいのだ。