ずっと、ケチなのだと思っていた。
両親のことだ。
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クリスマスプレゼントはもらえるけれど、誕生日プレゼントもお年玉もなし。周りのみんなは、テストで良い点数を取ればもらえるのに、おもちゃもなし。皮肉なことに、優等生の私はいつだって100点だったのに。
ゲームも禁止。話題のゲームボーアドバンスも、DSも、Wiiだって、「私の趣味は読書だもん、いらないもん!」とすっぱい葡萄のように、友達の持っているものを、強がってでも物欲しげに横から眺めるだけだった。
携帯電話もそう。小学校高学年でみんなが持ち始めても、所持率が100%に近づいた中学生のときだって、携帯電話は断固として高校から、が我が家のルールだった。丁重にお願いしても、いじけてみせても、懇願しても、「これがうちのルールだから。恨むなら恨みな」と笑って返されるだけだった。
子どもの欲しいものなんて、全然買ってくれなかった。だから、うちの親はケチ。
と、思っていた。大学1年生を3回やる羽目になるまでは。
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2年間の浪人生の皮をかぶった引きこもりニート生活を経て、なった念願の大学1年生は、なにもかもがキラキラと輝く楽しい毎日だった。新しいキャンパス生活と新しい友人、20歳の1年生ということで誰よりも堂々と飲み歩き、勉強や課題だって楽しく感じられた。
そんな浮かれた生活を送るうちに、私は自分の精神疾患を忘れ、寛解するために必要な規則正しい生活や服薬を怠るようになっていた。
その結果、精神疾患を悪化させ、たどり着いたのは精神科の閉鎖病棟の独房のような入院部屋だった。
入院生活は3か月続いた。1年目の大学1年生は、「休学」で終わった。
「楽しく実りが多い大学生活になるといいね」と4月に両親がニコニコと払ってくれた、1年間の学費の50万円。何も実らないまま、消えていった。
退院すると、再び家で療養生活という名の引きこもり生活をするようになった。でも、「せっかく大学生になれたのに」「親が一生懸命払ってくれたお金を無駄にしてしまった」という思いは頭の中にも心の中にもこびりついていた。
ある日、
「まよ、どうする?来年度。復学できそう?」
と、引きこもり生活を見守ってくれていた母が、遠慮がちに聞いてきた。
「したい。復学。頑張りたい」と、このままじゃ駄目だと、ずっと思っていた私は言った。
「まよが頑張りたいならば、応援するね」と新学期、両親は1年の学費として、また50万円払ってくれた。
「頑張りたい」、私がそう言ったから。なのに、そう言ったのは私なのに。
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2年目の大学1年生。必修は1限から沢山ある。家から学校まで片道1時間半を通学するためには、朝7時には出発しなければならない。1コマ休んでいいのはせいぜい3回まで。
6時半、アラームが鳴る。6時40分、スヌーズが鳴る。6時45分、6時50分、6時55分。時計は5分刻みで鳴り続け、私は毎回律義に止める。
両親の心配そうな顔が頭にちらつく。今度こそ頑張らなければ、人生をやり直さなければ、起き上がって支度しなければ。でも、どうしても、布団から出ることができない。
「まよ大丈夫そう?」と心配した父が扉から顔を出す。
「無理だ、今日」と返す私の顔がひどかったのだろう、父は責めることなく、「そう……」と悲しそうに言って扉を閉める。結果、ゴールデンウィークの頃には、1コマ上限の3回の欠席に達した。そして、家族会議の結果、私の2度目の休学が決まった。
休学の書類を出したときは、「これでもっと休める」というほっとした気持ちと、両親にまた50万円を支払わせて無駄にさせてしまった申し訳なさが、ないまぜとなった。
3年目の大学1年生。学校から通知が来た。それは、今回2年生に上がれなければ、除籍処分となる、という内容だった。もう休学はできない、もう猶予はないよ、と文書は冷たく告げていた。
2年間の休学で、意地になることができるほど休むことができた私は、背水の陣を敷き、なりふり構わず必死になった。何もかもうまくいかなかった4年間だけれど、せめてこの大学は卒業したい、と意地になったのだ。そして、そこから奇跡的にもストレートで卒業することができたのだ。
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無事に卒業してから2年が経った今でも夢に出ることがある。実は自分は3年目の大学1年生で進級できず、除籍処分の通知が大学から届く夢だ。その解像度の高い悪夢そのものの「IF」の世界線を、私はずっと背負い続けるのだろう。
卒業式の数日前、夕食後両親と話したことがある。1年目と2年目の大学1年生、そこで無駄に払わせてしまった計100万円をずっと気にしていた。ずっと謝りたかった。
「ごめんね、お金を使わせてしまって」と口を開いた娘に対して、父と母はこう言った。
「謝らなくていいよ。まよがのびのび休むための枠にお金を使っていたと思っているから」「私たちも親にしてもらったことを返しただけだから」と。
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計4年間の挫折を通じて、一つ痛感したことがある。挫折から立ち直るのに必要なのは、時間とお金と理解なのだ、ということだ。
4年間、時間をくれた。決して焦らせなかった。
100万円、2度のチャンスをお金で作ってくれた。
そして、何度も布団の中に再びこもりたくなる私を、引き上げてくれたのは、両親の愛ある理解だった。
だから、もし100万円があったら。
いつか、私が結婚して、いつか、私に私のような生意気な子どもができて、いつか、私の子どもが何か挫折をしたときに、もう一度挑戦しな、と背中を押せるように。100万円あったら、そんなことのために使いたい。
お金があれば完璧な幸せを掴めるわけではないけれど、お金がなければ掴めない幸せもきっとあるから。
そしてその子どもに、「お金を使わせてしまってごめんなさい」と謝られたときには、私もこう答えるのだ。
「私もしてもらったことを返しただけなのよ」と。
そう言えるようになったとき、私は初めて完璧に理解するのだろう。
私の両親はケチなのではなく、お金の使いどころを知っていた、賢者であったということを。