私が「文章を書くということ」と聞いて思い出すのは、「人は出会った言葉でしか話せない」ということである。

いつものようにTwitterを流し見しているときに、たくさんの人にリツイートされ私のもとに回ってきた、流し見していたらそのまま流れてしまうかもしれない、ピタッと流れを止めて誰かの心に残るかもしれない、たった一行の文章であるが、どこの誰が唱えたのかもわからないこの言葉を私はずっと胸にしまっている。

「人は出会った言葉でしか話せない」。よくよく考えてみればそりゃそう、当たり前のことであるが、これって話すことだけでなく、書くことだけでなく、大きく言って人生にも同じことが言えるのではないかと、どうしても私のこころの中から出ていかないのである。

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「言葉と出会う」とはどういうことを指すのか、これは本当に多様なもので、スーパーを歩いているときにアナウンスで聞こえたあの難しそうな単語、教授が絶対に覚えろよと黒板に赤字で書いた重要らしいあの単語、きれいなお姉さんが会社の上司に使っていたかしこまりすぎているあの敬語、弟とのけんかで初めて耳にした汚らわしいほどの雑言、すべて私が出会った「言葉」である。
私が使う「言葉」ってすべて私が目にした、耳にした、つまりは「出会った言葉」でできている。

人はだれしもきれいな文章を書きたい。「きれいな文章を書きたい」というどこかおかしな日本語自体、私と言葉との出会いの拙さを感じさせるが、誰だってきれいな文章が書けるのならば書きたいのである。
アルバイトで接客業をしていて思う。「この敬語、おかしいな」「あ、あの人の敬語、本当は目上の人に使っちゃいけないんだよな」「今の言い方、ちょっと偉そうだったかな」。出会った言葉の中から、今使うべき言葉はどれか、自分の辞書の中から適切な言葉を自分の今の能力で取捨選択しながら口に出し紙に書いている。
同じアルバイトの同期は言った、「えー、言うにしても書くにしても伝わればいいんだよ、伝われば」。
こういう考え方もあるのか。じゃあ「出会った言葉」がたくさんあってもそれを使いこなすかどうかはその人自身の性格にあるんじゃないかな。

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ここから考えたのは、文章を書くということは、自分をさらけ出すこと。たった一行の文章を書くだけでも、その人の言葉のレパートリーや使い方、その文章や読者に対する熱意や言葉では表せないようなその人の中の「何か」が文章には全部出てしまう気がする。
そうそう、そう考えたら、今までの経験がその人の性格を作るから、今までの経験、すなわち出会った言葉で文章は作られるというのも納得がいくな。

私は幼いころから本を読むのが好きだけれど、どんなに話題になったものだって、なんとか賞を取ったものだって、自分に合わないものは合わない。どう頑張っても文章が頭に入ってこない。ああ、なんかこの文章苦手だなあ。そういうことってある。
すごくありきたりな結論になってしまうのがとても悔しいけれど、やっぱり文章って「その人」を表すんだなあと思う。
私のこの文章は、誰かのこころにピタッと止まるのだろうか。