日記でも、エッセイでも、論文でも、私は文章を書くことで訪れるぎょぎょっとする瞬間が大好き。それは書いている途中に思うこともあれば、書き終わった後、はたまた周囲からの時間が経った後の指摘で感じることもある。
つまり、文章を書くということは私の無意識領域へアクセスするということ。知らない自分と文字を介して対面することができるのだ。

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最近、彼が知らない私を明るみに出してくれた出来事がある。
大学院の修士論文計画を、とある授業で発表する機会に恵まれた後のことだった。そこで様々な指摘や提案をもらったことを彼に連絡し、その授業で使用した資料を彼に送った。彼もまた新しい意見をくれたが、最後にハッと驚くことを伝えてくれた。

それは、私が発表の冒頭で説明した2枚のスライドだった。そこには、私がこのテーマを修士論文に選んだ理由と、修士論文に書きたい思いを綴っていた。
彼はそのスライドに対して一言。
「これは要らないんじゃないかな」
まさしく……。どの先生も学友も気づかない、私の性格を見抜いた鋭い指摘だった。

自分の意見を感情で押し通そうとするのは、私の昔からの悪い癖。
彼氏と喧嘩になった際、一生懸命言葉で説明をしながらも、目からは大量の涙。
今後の店舗運営を検討するビジネスの場でも、店舗スタッフの感情を尊重して、雲行きのあやしい利益率。

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そんな経験から、何か自分の意見を述べるときは、心の中で「客観的に、論理的に、端的に……」と呪文のように戒めるようになった。
しかし、今でも気を抜くと直ぐにこの癖が出てきてしまう。
それが今回のプレゼンでも2枚のスライドに垣間見られたわけだ。

常に俯瞰した立場で意見を書いたり述べたりしなければいけないなんてことはない。主観的な見方こそ、その人らしさが存分に出るところで、その声を尊重することはとても大切。
ただ、受信する側はそのスタンスでいることは理想的でも、発信する側は、受信する人が理解しやすいように努めることも大切なのも確か。

特に学術論文という発信の場では、感情むき出しでいることは、受信する側の混乱を招いて、本当に伝えたいことが届かない恐れをつくってしまう。
それは究極には私が望んでいないことであり、避けたいことでもある。
だからこそ、この癖を彼に指摘してもらって、私はまたぎょぎょっとしてしまった。

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どこかの本で、文章を書く際には様々なスタイルがあると良いと書かれていた。客観的事実やコーディングを重視したお堅めな文章を書きつつも、どこかで主観たっぷりの人間味のあるお茶目なエッセイを書く。

どちらも自分で、そしてまだまだ会ったことのない自分が文字の中に潜んでいる。
飛行機や電車に乗らなくても、自分探しの旅は一枚の紙とペン、もしくは携帯のメモ機能があればできる。

発信していこう。そしてそこで出会う自分に声を掛けよう。
「はじめまして!やっと会えたね!」
「久しぶりー。元気にしてた?」
こうして自分を身近に感じると、もっともっと好きになれる。