文章を書くということは自分と向き合うことであると、私は認識しています。

自分の心の内を言語化する、ということは、頭の中で何だかわからないけれど、もやもやと存在していたものを表現することです。
そうすることで、頭の中のもやもやを紐解くことができる。
例えば、何だかネガティブな気持ちがもやもやしていて、気分が優れない、怒りっぽい……でも原因が分からない……という状態にあるとします。
その気持ちを丁寧に深掘りしながら書き出してみると、いつ、何がきっかけでその気持ちになったのか、本当は言えなかったこと、やりたかったことがあったのに、出来なかったのはなぜか、次回からはどうありたいか、みたいな内省や反省をすることが出来、いつの間にかもやもやしていたものの正体がはっきり(とはいかなくても、より明瞭に)見えるようになると思います。

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もやもやがはっきりすると、不安が薄れていくものです。
目に見えない敵より、目に見える敵の方が、具体的に対処出来るものです。
そして、解決のための勇気を奮い立たすことができる、と考えています(例えば目に見えないおばけと戦うよりも、目に見えている暴漢と戦う方が、弱点が予想できるので対応しやすい、といった具合です)。

いわゆる言語化、という行為にあたるかと思いますが、言語化されることで上記のように、自己の内省や反省につながる、という点を書きました。
それに加え、自分の中のクリエイティビティを育てる、という効果も感じています。
誰しも頭の中に面白い想像、豊かな発想、非現実的な夢、みたいなものを思い浮かべることがあると思います。
それを形にする、というクリエイティブな体験を、書くという行為は叶えてくれます。
クリエイティビティを発揮することは、人のためにメイクしたり、人を喜ばせたり評価されたいがための振る舞いでもなくて、自己満足のために自分らしくいられる時間そのものなのでは、と私は考えています。

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以前の私は、正解を選ぶ、という以外に選択肢は無いものだ、と思い込んでいました。
いい大学に行って、いい会社に入って、道を外れることなく、順風満帆で、傷つくことなど無く、友達にも恵まれ、お金にも困らずいつもニコニコ……。
そういう人生が正しくて幸せなのであり、必死にその状態でいなくてはならないのだと思い込んでいました。
その頃は、主体性を見失っているので、自分の本当に望むことなど、叶わないと当たり前のように諦めていました。
そして、悲しみや苦しみはひたすらに隠さなくてはいけない、感じても無駄だと無視していました。
でもその時間があったからこそ、今こうしてあの時吐き出せなかったたくさんの言葉を、今度こそ無くさず掬い取って文章にしたためる、ということが出来ているので、当時の私に感謝の気持ちでいっぱいです。

文章を書くことは、誰のためでもない、自分と向き合う行為。
私を私たらしめる行為。
どんなに周りが混沌としても、私が私と向き合う覚悟をずっと持ち続けさえすれば、前を向いて歩んでいけるだろう、と思わせてくれた行為です。