もし手元に百万円があったなら、全額奨学金返済にあてます。
いつ、誰に言われようと、この言葉を即答で返すだろう。

七年間の大学生活のうち四年間、奨学金を借りていた。恥ずかしながら、受験生の時に奨学金とは何かほとんど知らず、親に促されるままに奨学金を申し込み、奨学生として採用された。
社会人となり毎月少しずつ返済しているが、五桁の金額が固定費として生活費から引かれることは、正直つらい。返済する大変さを知っていれば、もう少し真面目に学生生活を過ごしただろうに。そもそも、借りなければよかったかもしれない。「奨学金は借金だ」と言う人々をたまに見かけるが、その度に「わかる」と思ってしまう。
せめて、返済不要の奨学金をもらって留学し、大学院では学費を一部免除してもらえるくらい学業に勤しんでいた自分自身のことは、少しだけ褒めよう。
しかし、いくら足掻いても、進学するには奨学金を借りるしかない立場だったのだとつくづく思う。ここは割り切って過ごしていくしかない。

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この手の質問には、いつもこのような回答をしてしまう。
それ以外だと、生活必需品を買い、実家にいくらか送金するだろう。おそらく娯楽には使わない。娯楽費は自分自身の力で稼ぎたい。
そもそも、いきなり百万円もらえること自体、自分にとってありえない。どうせなら、普段の自分ではできないことに使いたい。

小学校高学年の頃、学校近くの集落に住むおじいさんがいた。ボランティアとして、たまに学校の登下校や校外活動で児童を見守ってくれていたのだ。
ある日、そのおじいさんから小学校宛に数万円が寄付された。こんな大金を孫でもない児童たちの学校のために寄付してくれたのか、と当時は驚いた。後に、そのお金は花壇などの校内美化に使われることになったと聞いた。

教室で担任の先生が「よかったら、おじいさんにお礼の手紙を書いてください」と言った。私は住所を教えてもらい、おじいさんに手紙を書いた。
「いつもボランティアしてくれてありがとうございます」
「寄付もしてくださり、ありがとうございます」
「いただいたお金は花壇やお花に使うことになりました」

後日、おじいさんから返事が届いた。それには「手紙をありがとう」「喜んでくれて嬉しい」など、あたたかい文章が綴られていた。しかし、とある文章に目が留まった。
「私はただ、百人の子供に一本百円のジュースを買ってあげたかった。校内美化に使われるのなら、もっとちゃんとした額を寄付すればよかった」

嬉しいことをしてくれたのに、切ない気持ちになった。おじいさんが本来思っていなかった使い道としてお金が回ることになった。おじいさんは学校以上に、児童一人一人に、贈り物をしたかったのだろう。

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それがきっかけかどうかは分からないが、寄付や募金を滅多にしなくなってしまった。小学生の頃は、可能な範囲で積極的に募金活動をしていたのに、お金を自分で管理するようになってから、そして、寄付したお金の使い道が不透明なこともあるという事実が、私を遠ざけていったのかもしれない。
百万円あっても、信頼できる保証があったとしても、私はそのお金を寄付に回すだろうか。
しかし、おじいさんみたいな寄付のかたちに、尊敬や憧れを抱いている。

もし百万円があったなら、私は百人の子どもに千円の図書カードを贈りたい。
百人は決して多い人数ではない。でも、一人一人の子どもに対して、何かを贈りたいのだ。その何かは、「本にしよう」とすぐ浮かんだ。図書カードならば、絵本や漫画、教科書も買える。お店によっては文房具も買えるだろう。
「千円」にも理由がある。漫画や文庫本なら使いきれなくて、大きな本や教材なら足りない金額だ。その点をどうするか、受け取った子どもに考えてもらいたい。とりあえず漫画一冊買って次の買い物まで取っておく、でもいいし、お小遣いと合算して高い本を買ってもいい。考えてお金を使うきっかけになれば、と思う。そもそも、図書カード自体珍しいものになってるから、こんなのもあるんだよ〜と見せて教えてあげたい。

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ちなみに、百人の子どもはあえてランダムに選ぶ。昔の私なら、身近な子どもや貧しい子どもにあげたいと思っただろう。しかし、お金持ちもいれば貧乏な人もいる、勉強が得意な子もいれば苦手な子もいる、という当たり前だけど厳しい事実を日々痛感している。だから、一切贔屓目なしに選ぶのだ。そもそも、世の中ってランダムなものだろう?

そう思いつつ、日本の貧困問題に向き合いたいと思っているため、世の中に存在する格差が少しでも埋まってほしい。そんな私の、小さいながらの布石だ。