「文章を書く」。これについて私が思うことは「人と話すことよりも書くことの方が自由である」。これに尽きる。
確かに文章は会話と違って声のように瞬間的に消えるものではないため、人の目に入れば取り消すことがほぼ不可能であるから、一見縛られているようにも感じる。しかしよく考えると、それもまた自由の産物なのである。

多くの人が「文章を書く人」と聞いて真っ先に思いつくとしたら、作家や編集者などの文章を書くことを仕事にしている人ではないだろうか。そういった人たちは時に他者から「このように書いてほしい」という依頼に合わせて書くことがある分、すべて自分の表現したいように書けないことがあるかもしれない。
しかし「書く」ことを仕事にする、多くの人に見てもらうなどその人自身の意思で選択し文章を書いているため、それもまた自由意志によって生み出された文章だと私は考えている。
そして文章を書くことは作家たちに限った話ではない。仕事や経験に関わらず私のような学生でも「文章を書く人」の一人である。

◎          ◎

私は物心ついたときから大きな絵本を床に置いて硬いページをめくるのが好きだった。そして時にはクレヨンで絵本の続きを書いて親に見せていた。
小学校に上がっても図書館に入り浸り、本を手に取ってはその場に座り込んで読んだ後、家に帰って読んだ本の真似をして自分だけの物語を自由に書いては同じ本好きの友達に読んでもらっていた。
しかし中学生になって演劇部に所属したことでそれは変わった。

もともと脚本に興味があって入部した私は、同級生という身近な存在が自分と同じように物語を書き、その文章が他人に評価され、文章を書くことには優劣があると身をもって知ってしまった。これにより書くことへの考え方が一変したのである。
また、そのころから親にも「いい加減そんな『稚拙なこと』やめたら?」と物語を書くこと自体を否定されるようになった。

「自分の書く文章は誰からも求められず、恥ずかしくて無意味なものだった」
そのことに気づいて以降、私は演劇部を辞め、一切物語を書くことをやめた。正確には何かを書いても呪いのように脳裏に他人の目が付きまとい、書けなくなったのである。

◎          ◎

それから月日が経ち、私は大学生になった。
あの日以来、私の中で「文章を書く」ということは、課題やレポートといった学生が成績を得るために必要なことで、内容も先生が望んでいる答えが決まったものを期日までに書く、つまらない制限ばかりの作業に変わっていた。

もう一つ変わったことと言えば、SNSを始めて学校の友達だけでなく、インターネットを通して知り合った同じ本や漫画が好きな友達と、文字を介して話すようになったことだ。
元々人と話すことが苦手な私は、気軽に好きな話を好きなだけ文字で「話す」ことが好きだった。人と話す時には話の間を長く空けてはいけないため、瞬発的に言葉を考えなければならない。私はそれが苦手だから、いつも最適な言葉を選べずに後悔する。だが文字であれば会話よりも言葉を考える時間があり、話すよりも自分の意思を伝えられるのだ。

そしてある時、SNS内で本の話題で盛り上がっていると、友達が私に言った。
「この本読んでそんな面白い発想が頭にあるなら、それ小説にして書けばいいじゃん」
私は戸惑った。しばらく物語を書いていなかったこともあり、自分より「上手い」人なら大勢いるし、書くことで馬鹿にされたくなかったからだ。
その旨を友達に告げると、素早い返信がきた。
「人を気にしてたら誰も物語なんて書けないよ。書きたいから書くんだよ。嫌なら読まなければいいし見せなければいい」
その言葉で何年も抱えていた呪いがあっけなく解かれた。

◎          ◎

確かにそうだ。
「文章を書くこと」は人に見せることではない。SNSでのやり取りのように見せたい人に見せればいいし、一人で宝物のように秘めてもいいのだ。

つい最近になって、少しずつだが私は小説を書くようになった。まだ人に見せるには抵抗があるので誰にも見せていないが、完成したら気が向いた時に友達にも見せようと思う。
いつになるかはわからない。「文章を書くということ」自体は自由なのだから。