私は文章を書くのが苦手だ。しかし、文章を書くのは嫌いではない。むしろ好きだ。得意不得意と好き嫌いは全く違うものだと思っている。
自分自身で文章を書くのが好きだなと思う瞬間がある。それは、推しについて考えるときである。

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私はアイドルが好きだ。恥ずかしながら小学生のときから大学二年の現在まで途切れず推しがいる。推しについて文字にして書くことはよくあるが、その中でも私の推しがグループから脱退したときに書いた手紙は今でも見返すことがある。

iPhoneのメモに高校一年のときの精一杯の推しに対する気持ちを長く、長くつづっていた。決して上手な文章とは言えないし、当時まだ高校一年ということもあり大人ぶろうと背伸びして書いているようにも感じ少し恥ずかしいが、読んでみると当時の推しの脱退を知った直後の自分の気持ちが鮮明に思い出されてきて、自分で書いた手紙にもかかわらず少し泣きそうになった。
文章から伝わるパワーはとても大きいのだ。

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一体なぜ、事あるごとに私だけしか見ることのできない手紙を書くのか。それは後で見返した時に当時の気持ちを思い出してほしいからである。
推しが脱退した当時は悲しくて仕方なかったが、五年が経った今、勿論悲しいし今でも戻ってきてほしいと考えることもなくはないが、明らかに昔よりは気持ちに整理がついている。

当時の私がどの程度未来の私のことを想像して書いたかは全く覚えてないが、気持ちが少しでも軽くなる未来がくるなど想像もできなかったであろう。五年前、当時高校生なりたてのほとんど中学生のような一人の人間が、いつの間にか成人式を迎え、お酒も飲めるようになった。

文章を書く理由として、『未来の自分に読んでほしいから』と書いたが、正直、十五歳の私はこの文章を二十一歳の私に未だに読まれているなど考えられなかっただろう。この手紙はiPhoneが壊れるまで、メモを誤って消さない限り、読み続けたい。

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話は変わるが、最近手紙を通して感動したことがあった。それは成人式の時に配られた小学六年生のときに書いた『二十歳の自分へ』という手紙だ。
同級生はどう思っていたかは知らないが、私は当時『二十歳の自分へ』を書いたことを鮮明に覚えていた。その手紙を受け取るのが成人式の楽しみでもあったほどだ。

成人式を終え、家に帰りワクワクしながら手紙を開けた。書いた内容は全て覚えていると思い込んでいたが、後半には想像もしていなかったことを書いていた。
そこには『今、この手紙を書きながらお母さんに怒られています。今でもお母さんに怒られていますか。』と小学生の私の筆跡で書いてあった。

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ここで話すと長くなるが、去年母親は病気になり、当時手紙を書きながら怒っている元気なお母さんではなくなってしまった。それを読んだ瞬間、涙が止まらなかった。
当時の私は、二十歳になる前にお母さんが病気になるなんて信じないだろう。小学六年生らしい下手な文字と一生懸命書き綴った文章をみて余計に涙が止まらなくなった。手書きの文章にここまで感情移入したのは初めてだった。

文章は上手下手関係ない。気持ちがこもっているかこもっていないかが最も重要なことである。
自分が書いた文章じゃなくても、まったく面識のないどこかのだれかでさえ、お母さんへ向けて書いた気持ちのこもった文章を読むと感動してしまうように、文章は、気持ちを込めて書くことで初めて人の心を動かす素敵なものになると思う。