「二十歳になったら何が変わりますか」
バイト先で、少し前に二十歳になった先輩に聞いた。「競馬ができる」と返ってきた。ギャンブルには、あまり興味を持てない。先輩は続ける。
たばこ、お酒、国民年金の支払い。二十歳になったら解禁されるものたち。それらをすべて自分のものにすれば、大人になるのだろうか。僕は何をすれば大人になれるのだろうか。

自分の人生を楽しく豊かにすることをあきらめたくない

僕が参加した令和四年度の成人式は、保護者も来賓もおらず、身なりを整えたあの日の僕らがバラバラに立っているだけだった。オンラインで有名な人の話を聞いても、友達と話しても、久しぶりに会った人と仲直りをしても、僕が「成人」になったのかわからないままだった。
わからないまま、成人式は終わっていった。

僕は成人式を迎えても二十歳ではない。誕生日は二月十六日なので、みんなよりもすこし遅く大人になる。
少し前は、成人式を迎えれば大人だと思っていた。今は、二十歳になれば大人になると思っている。成人式も二十歳の誕生日も終わってしまう。僕はいつ変わってしまうのだろうか。

ついでに、僕は大人になりたくない。大人になりたくないのか、働きたくないのかは、わからない。
僕がいつ大人になるかとか考える前、周りの大人は「学生時代のほうが楽しかった」「仕事に行きたくない」「遊ぶ時間がない」と、馬車馬のように働いていた。それを当たり前に受け止める大人たち。メディアもそれを当然のこととして映していた。

働くことはみんなが生きるためにしなければいけないことなのに、どうして変えようとしないのだろう。僕は不思議で仕方なかった。
今になって思う。それまで僕の見ていた大人たちはきっとあきらめていたんだと思う。自分の人生を楽しく生きることを、豊かにすることを。僕はそんな大人にはなりたくない。このまま、十六日を飛ばしてくれないだろうか。

大人への嫌悪感。その理由は、身近な大人たちの影響だった

僕が大人になりたくないと思うのには、もう一つ理由がある。僕にとっての身近な大人が中学卒業まで、両親と親戚と教師だけだったことだ。

母は酒癖が悪く、完璧主義でヒステリック、父は悪口や暴言で僕を傷つける。両者とも、20年間育ててくれていて、僕は大好きなのだが、彼らによって僕が傷つけられたとき、謝られたことはほとんどない。
親戚は、当たり前だが僕の両親の親や兄弟なので、同じようにデリカシーがなかったり、都合がいいように扱われたり、だまされたりした。

いじめられていたとき、助けてくれと言ったのに手を差し伸べてくれなかった担任の先生を僕は忘れたことがない。今でも名前を覚えている。
中学生までの僕は、スマホも持たせてもらえず、身の回りの大人はこの人たちだけだった。大人に漠然とした嫌悪感が残っているのも許してほしい。

SNSで「やりたいことをしている大人」に出会って

しかし、高校生になってスマホを持ってから世界が少し広がった。
いろんな大人がいた。働くのが楽しい大人、趣味と両立している大人、将来の夢をお酒を飲まずに語る大人。
中でも、僕が大人への偏見を大きく変えたのは、Twitterで知り合ったある人である。その人はハンドメイドで生花からバレッタやイヤリングなどのアクセサリーを作ったり、ハンドメイドイベントを主宰したり、僕が初めて見た『やりたいことを仕事にしている大人』だった。
その人の周りにはいつも楽しい大人が集まる。モデル志望、将来古着ショップを持ちたい人、絵描き。話す内容も様々で、そこにいるだけで僕はとてもわくわくしていた。やりたいことをしている大人は楽しそうで、綺麗だった。

僕はまだ、大人になりたくはない。二月に来る二十歳の誕生日が飛ばされないか、なんて考えている。いつ大人になるかもわかっていない。
けど、大人になっても好きなことができると知っている。やりたいことができると知っている。
それだけで、いつかくる「大人」が少しだけ怖くないような気がする。僕が大人になっても、あきらめながら生きる大人にはなりたくないと思うのです。
そして、大人。もっと世界は広いこと、早く教えてくれ。