私の記憶のある限りでは、その場その場で必要な言葉を探し続けて生きてきたように思う。というのも、文章を書くことは、自分にとってとても日常的な思考で、最も自然な形でのアウトプットだったからだ。幼少期に書いた作文を褒めてもらえた経験からも、「私の文章は人に伝わるもの」という自負があったのかもしれない。

そんな思いのもとで私が生み出す文章は、不特定多数の「だれか」に宛てたものが多い。その「だれか」は私に共感してくれる人であり、理解しあえない人であり、違う時間の「私」だったりする。
逆に言えば、自分以外の特定の人に宛てた文章(いわゆる手紙)は、近年までなるべく書くことを避けていた文章である。この苦手意識とお別れできた話は、別の機会に取っておきたい。

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さて、手紙といえば、通っていた小学校のイベントで、タイムカプセルを埋めたことがある。生徒1人につき1枚ハガキが配布され、未来の自分に宛てて手紙を書くというものだった。
書いた手紙は卒業後、生徒たちが成人した頃に掘り起こされ、各自に送付される。小学生の自分から、未来の自分に手紙が届く感動イベントというわけだ。

しかしながら、喜んでいいのか、悲しむべきなのか。私はそれを書いた小学2年生の日のことを、まるっと覚えていた。「何書いていいのかわかんねー!」と叫ぶ男子が面白かったのも、ちょっぴりうっとりと書き終えた女子の顔も。もちろん、当時の私が何を書いたのかも。
だから、いざ黄ばんだハガキを受け取ったとき、おそらく先生方が想定していたような感動は、とくに生まれなかったのである。よかったことと言えば、現在の私の方が少なからず字が上達していたくらいだ。

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小学生の私はこう書いた。
「未来の自分へ。小さいころ、ゆめ見たとおり『作家』になっていますか? ママとやくそくしたとおり子ども10人うめましたか? 本は、いっぱい読んでね。小さいころの自分より」
だから私は、ずっとこう唱えながら大人になった。
「ちいちゃな私へ。何にも叶えられてなくてごめんね。大きな私より」

あの日、タイムカプセルを書いた小学生の私は、いろんな大人たちにとても気を遣って、この文章を書いていた。それは紛れもなく、「いい子」でいようとした自分の姿だ。
大人になってよっぽど衝動的に文章を残しているTwitterの方が、数ヶ月後に読み返して「こんなの書いたっけ!」とびっくりすることがある。
その事実に、私は今更泣きたい気持ちになった。タイムカプセルの中に、後悔を混ぜて埋めてしまっていたようだった。

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昨年の同じ頃、一本のエッセイを書いた。休職中に、今後の自分の在り方を考えてまとめたものだ。テーマからまとめ方まで、自分としてはとても気持ちよく書き上げられたことは覚えている。
20年近く前の手紙を覚えていたくせに、1年前のこのエッセイを、私は意外にも新鮮な気持ちで読み返すこととなった。

悔いなく書いた文章は、そのときの自分が結論づけた思考だ。だから、私にとって文章を書くということは、魂のかけらをそこに置いていく作業なのだと思う。
その文章を完結させた瞬間に、私はその思考をしていた私から切り離される。けれど、その書き上げた文章を読み返しさえすれば、私はいつでも、当時の私に会えるのだ。
その切り離しをちゃんとしてあげられなかったから、小学生の私はずっと、今の私にくっついて歩いていたらしい。

小物入れに中身のラベルを貼るように、私は言葉で、思考を束ねる。そうしてできた文章はきっと、今この瞬間の私を、いつかの未来の私に会わせてくれるのだ。
これからは何度でも、正しいタイムカプセルをつくれるはずだ。