11時。昨晩にセットしたスマホのアラームが私の脳天を突き刺すように鳴る。最近スマホを替えたばかりなのでうまく止められない。かさついた指をなんとかスライドさせ、また眠りにつく。

変わらない日々、変わらない自分   

気になった言葉はなんでも調べる。スマホで。30年近く生きていてもまだ聞きなれない日本語はあるものなんだなあと、自分の無知さをおかずに「朝ごはん」を食べおわり、何者でもない私の1日が始まる。
「何か」になりたかった。血のにじむ努力をして、人からのある程度の尊敬を受けて20代を終えてみたいと思っていたけれど、それももう無理そうな目途だけはたった。

「口が達者だね」
「よくしゃべるからあだ名はペラ子」
周りの”期待値‘’は昔から高くて、おどけたおしゃべりなペラ子を演じる。
ペラ子は話すのも得意だけど相手の話を聞くのも得意。相手は頼んだブレンドがアイスになるのも気にしないほど私の目をみて話し込む。話し終えると満足したのか、アイスを口へと運ぶ。

聞くのが得意な私の話を、だれが聞いてくれるだろう

ーー私だって。私だって
口角をあげたまま、心ここにあらず。私の話は一体だれが聞いてくれるのだろう。淡い期待を抱いているうちに、小さくスッと息を吸った相手がまた話し出す。
そうやって目頭が熱くなった夜は、パソコンを開いて「ある人」に打ち明ける。そう、ペラ子である自分に。

焦り、せつなさ、怒り、悲しさ、恋心ーー。書くことは話しかけること。そう自分に言い聞かせ、思いの丈をつづる。カタカタと指がキーボードを舞台に踊る。
誤字脱字大歓迎。だって私しか見ないからねと自分に言い聞かせ、言いたいことを文章というツールに乗せて適当に闊歩する。
ああ、これこれ、私が話したかった相手はペラ子=自分だったんだと、ふるさと、マイホームに帰ってきたような気分になる。

髪の毛がくせ毛で悩んでいたことを打ち明けたときも、母とのうまく行かない日々を嘆いたときも、死んだ祖母と旅をした思い出を振り返りながら、もう一度祖母に会いたいと涙ながらに話しかけた時も、指は舞台で踊り続け、ペラ子を相手に語りをやめない。

「何か」が遠かった私からのプレゼント

ーー私だって。私だって
思い描いていた「人並みの人生」に度々訪れる、ふわっとした波にうまく乗ることができなかった。受験、恋愛、親との関係、結婚、出産。その波はことごとく私を飲み込み、心に瓦礫だけを残していった。
「何か」になりたかったけどその「何か」が遠かった。近くにあるのに遠くて遠くて、もうその手の指先さえも届かないと思ったとき、ペラ子への語りをやめない。
綴るとは、文字通り、言葉の糸で自分の気持ちを編んでいくことではないか。その編みあがった言葉は誰でもない自分にプレゼントされる。それが私の文章を書く理由ではないか。

ーー私だって。私だって
11時。前日よりも少し音量を落としたアラーム音が指のスライドで消えていく。ぼさぼさのくせ毛髪がすり寄ってきた飼い猫の頬に触れ、ゴロゴロという喉音が耳元で響くのが心地いい。

自分の言葉で自分の気持ちを編み上げる

耳障りな昼のワイドショー番組を消して向かったのは、パソコンの画面。一方的で雑に語りかける。それでいいんだ。私の思いを、ペラ子に聞いてもらうんだ。私だって、私だって。
エンターキーを強く叩くうざい音が部屋に響く。いや、今、私がここにいるんだという魂の音とでも言い換えよう。親や先生、友達、上司、誰からの評価も褒誉もいらない。自分がペラ子に、ペラ子が自分に語りかける。

綴るとは文字通り、自分の言葉で自分の気持ちを編んでいくこと。何者でもない私が、言葉を紡ぎながら自分の気持ちを編み上げたとき、はじめて何者かになれた気がした。

編み上げた言葉がプレゼントみたいにキラキラと私の中で輝く。書くことは話しかけること。私しか知らないもう一人の自分、ペラ子に話しかけることが、私が文章を書く一番の理由なのかもしれない。