「何を考えているのかわからない」「不思議ちゃん」「変わっている」
中学生以降の私に出会った人の多くが、私に向ける言葉だ。このような言葉で形容される理由は、私が会話をすることが不得手だからだと思う。

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はっきりとしたきっかけはないものの、思春期を迎え、小さい頃と違って気軽に自分の意見や感想を言葉にすることができなくなってしまった。特に3人以上の集団の中に置かれると途端に上手く言葉が出せなくなる。
「かわいい」の共感や「ムカつく」の共有に言葉にできない違和感を覚えつつも、輪を乱さないために頷く。集団の輪の中にいるのにどこか別の空間に1人取り残されている気がしていた。
リアルタイムでどんどん進んでいく会話の電波に乗ることができず、必死にしがみつこうとするとタイムラグが発生する。だから私は口を閉ざし、ひたすら相槌を打つことへ徹するようになった。
しかし、言葉にできない様々な違和感は、味のないガムのようにねっとりと生ぬるい熱を帯びたままいつまでも舌の上に気味悪くのさばり続けた。

「これ、どうだった?」
ある日、父が読み終わって机の上に置いてあった小説を指して私に尋ねた。
「おもしろかったよ」
と私が答えると、父はすかさず「どこがどんな風におもしろかったの?」と再度尋ねてきた。
私は、黙りこくってしまった。そんな様子を見て父は少し微笑み、A4のキャンパスノートを手渡してきた。
「自分が何を見て、読んで、聞いて、どのようにそれを感じたのか。なぜそう感じたのか。すぐに言葉にして発することは難しい。でも、それらを理解することはとても大切なことだよ」

父の言葉はよく理解できなかったが、手渡された真っ白なノートを突き返すのも忍びなく、言われるがまま、ノートに読書記録をつけるようになった。
ノートはやがて読書記録から誰にも見られないTwitterのようなものへと変化していった。日記とは違い、毎日書くというルールはなく、リアルタイムに自分の言葉を書き綴った。

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文章として自分の感じたことを記すのは案の定難しく、予想以上に楽しかった。曖昧にぼやけていた輪郭が徐々に鮮明な形を帯びて立ち上がってくることで、出来事や物語の内容だけでなく、その時「私」が再び動き出すような感覚を覚えた。それは、味のないガムの味を思い出し、すっきりとした気持ちで紙に包んで捨てるような行為と似ていた。

文章を書くことで、私は変わった。書き続けることで、次第に「私」の輪郭をなぞれるようになり、ゆっくりとではあるが、会話の中でも「私」の言葉を発せられるようになってきた。
文章を書くことで、その時の「私」が紙面上に残る。それを時々読み返し、あの時の「私」を俯瞰する。時々恥ずかしくて目を背けたくなるようなことや、悲しくて思い出すと辛い出来事も、ノートの中で時間をかけて熟成させることで、ゆっくりと味わい、飲み込むことができるようになる。そして今の「私」の全身をめぐり、再び「私」の輪郭を色濃くする。
つまり、文章を書くことは「私」を理解することなのだ。そして自己理解の深化は、他者と「私」の世界を繋げてくれる。

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年末に帰省し、久しぶりに中学校時代の友人に会った。あまりにも自分の意見を言わない私に彼女が苛立ったことで、微妙な関係のまま別れた友人だった。再会後、私たちは近くの喫茶店に入り、ゆっくりと時を遡った。あの頃飲めなかったはずのブラックコーヒーを注文した彼女が、
「相変わらず変わっているね」
と呟いた。
「でも、おもしろい」
ふっと微笑んだ彼女にあの頃の彼女が重なって見えた。
「ありがとう。そっちもね」
長いようで短い時間を経てやっと「私」の言葉が話せた気がした。
届いたコーヒーをゆっくりと口に含む。喉元を通るコーヒーは熱くて苦くて、少し酸っぱい。お腹へたどり着いたコーヒーの熱は、じんわりと私の全身をあたためた。
帰ったらまた、筆を取ろう。心の中でページを開いた。