言葉を伝える方法はいくつかある。話して伝える方法、書いて伝える方法、ジェスチャーで伝える方法。
最近では手話のドラマがあり、すごく言葉の重みを感じた。相手のことを考えて、しっかりと自分の思いを伝えていたところに胸を打たれた。あのドラマを見て自分から発する言葉を見直した人は多いのではないだろうか。
伝える手段が変われば、伝える内容も変わってきたり、言葉のチョイスも変わってくる。

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私の中で、文章を書くということは、私にとって気持ちを裸で見せることであると考えている。

私は生まれて8ヶ月目という、かなりの早さで話し始めたらしい。そこからもわかるように、生まれつきのお喋り者である。どこに行っても誰かといれば話が止まらない。今でも、よくそんなに口が動くねと言われるほど常に口が動いている。
そんな私は、友達が言ったある言葉にすごく共感した。
「よく喋る人ほど本音を言わないよね」
その言葉を聞いたとき、ズキッと胸が痛んだ。私自身がそうだからである。友達に見透かされた気がした。あまり本音を口から発したことがなかったからである。

喋るということは大体相手がいて、相手に向かって話す。相手がいるため、私は自然と相手が喜ぶ言葉、楽しくなる話をする傾向がある。そして、どう話したら面白いかを常に考え、声のトーンや、話のテンポ、言葉にあらゆる装飾品を飾り付けし、口から言葉を放つ。

口から出る言葉はドレスを着て、時には化粧をしているほど自分の内面とかけ離れていることがある。ただ、それは自分の性格なのかもしれない。
自分の中のしんどいこととか、悲しいことを話した後の相手の顔を見るのが怖いのだ。沈んだ空気を2倍にも3倍にもしてしまう自分が怖いのだ。恐らく相手はそんなことないよって言ってくれるのだろうけど。

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しかし、そんな側から見たらハッピー野郎に見える私も人間である。時には叫びたい時もある。自分の気持ちを伝えたいけれど伝えられない、そんなときはこうやって文章を書くことにしている。
相手が見えない分、自分のペースで、自分の言葉で、自分のペースでありのままの姿を書くことができる。また、書くことで「自分は今こんなことを考えていたんだ、こういう気持ちなんだ」と気づくこともある。私自身の心の整理になることがある。さらに、不特定多数の方に発信することによって、読みたい人だけが読めばいいので、私自身も気を遣わずに済むのである。

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そしてこの文章が、読んでくれた誰かの側にそっと寄り添えていたらいいなと傲慢ながらも思っている。
お喋りな人ほど本音を言わない、だからこそお喋りは共感を得ることが少ない。それを私自身が身をもって痛感してるからこそ、そんな人へもこの文章を通して、同じ人がいるんだよっていうことを伝えたい。
文章を書くことは、会ったことのない人へも、自分の本音を伝えられる最高の手段だと考えている。
これからも私は文章を書き続ける。自分自身のためにも、見えない誰かのためにも。